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第二改訂版

細 菌 学 を 創 っ た ひ と び と

~大発見にまつわるエピソード~

 

志賀 潔 著
田口文章 編

 

いまから丁度100年前に27歳の若さで赤痢菌を発見した世界に誇る 
日本の生んだ大細菌学者・志賀潔先生による、細菌学の歴史を飾った 
大発見者達の発見にまつわるエピソード集です。

 

北里メデカルニュース、1982年発行.   平成9年(1997年)7月1日第二改訂

 

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目 次
はしがき           長木大三
細菌学者歴伝(登場人物)   志賀 潔
  1. レーウェンフック Leeuwenhoek, A.
  2. スパランツァニー Spallanzani, L.
  3. パストゥール Pasteur, L.
  4. コッホ Koch, R.
  5. 浅川 範彦
  6. ライト Wright, A. E.
  7. メチニコフ Metschnikoff, E.
  8. ポレンダー Pollender, A.
  9. ダーバイン Davaine, C. J.
  10. 北里 柴三郎
  11. ベーリング Behering, E.
  12. エミール.ルー Roux, E.
  13. ハンセン Hansen, A.
  14. セリ Celli, A.
  15. クルーズ Kruse, W.
  16. ペッテンコッファー Pettenkofer
  17. 野口 英世
  18. ブルース Bruce, D.
  19. ショウダン Schaudinn, F. R.
  20. ワイル Weil, A.
  21. ラベラン Laveran, A.
  22. ロス Ross, R.
  23. グラッシー Grassi, G. B.
  24. スミス Smith, T.
  25. マンソン Manson, P.
  26. ジェンナー Jenner, E.
  27. 梅野 信吉
  28. リケッツ Ricketts, H. T.
  29. エールリッヒ Ehrilich, P.
  30. 秦佐 八郎
  31. リード Reed, W.
  32. プロバセック Prowazek, S.
  33. パイフェル Pfeiffer, R.
  34. コ―ル Kolle, W.
  35. 遠籐 滋
遺稿「回想録」から      志賀 亮
科学者への道あとがきに代えて 田口文章

 

目次 ▼▼

は し が き 
 
北里メディカルニュース
編 集 委 員 長  
長 木 大 三   

 

 志賀潔先生は、日本の誇る細菌学者である。東京大学医学部を卒業して直ぐに伝染病研究所へ入り、北里柴三郎所長に師事して僅か一年後に赤痢菌の発見という幸運に恵まれた。今日赤痢菌の学名をシゲラShigellaと呼ぶが、若冠27才だった志賀潔の学勲を永遠に賛えるものです。

 志賀潔先生は、ドイツへ留学してフランクフルト実験治療研究所のエールリッヒ所長のもとで化学療法の研究を創始した。この研究は志賀先生の次に留学した秦佐八郎博士に引き継がれて遂にサルバルサンの発見で完結しました。

 大正3年 (1914) に所長北里柴三郎博士が伝染病研究所を退任するや、志賀先生は他の同志と共に北里博士に従い、北里研究所の創立に参画しました。大正6年 (1917) に慶応義塾大学医学部創設と共に北里医学部長の下で教授に就任しました。同年秋朝鮮総督府医院長兼京城医専校長に任命され、大正15年 (1926) には新設の京城大学医学部長、次いで昭和4年 (1929) には京城大学総長に就任しました。昭和6年 (1931) には東京に戻って来て北里研究所顧問となり癩菌培養の研究に当たりました。

 志賀先生は、昭和19年 (1944) 日本政府より文化勲章を授与され、戦後は故郷の宮城県下において悠々自適、昭和32年 (1957) に87才の天寿を全うされました。

 志賀先生には多数の著書がありますが、そのなかでも「細菌学及免疫学綱要」は、当時の知見が簡潔にとりまとめてあり名著の評判が高い。殊に「細菌学者歴伝」として斯界の大人物達が、如何に研鑚苦心して研究成果をもたらしたかというエピソードを学者の人物紹介とともに挿入してあるので、教科書としても大変に興味深く読み進むことのできるものでした。

 日進月歩の科学のことだから、当時の新知見も今日からすれば書き改められねばならない点が多々あることは己むを得ませんが、しかし、当時の学者達の人物歴と苦心の跡は消え去らしてはなりません。多くの人物は、先生の友人として登場するので、先生のお人柄そのままの温かい友情で彩られている。国を超え、人種を超えた一代の碩学志賀潔先生の温かい友情に支えられた細菌学の側面史がここにあります。

 どうか読者の皆さんは、このことに心をとめて読み進んで頂きたい。そしてどの学問もそうであるように、細菌学もまた多くの学者達のたゆまざる努力のお陰で、歩一歩前進しつつあるのだということを感じてくだされば幸いです。

 以上は、本書が一つの本にまとめられて出版される前に7回にわたって月刊「北里メデイカルニュース」に掲載されるに当り、同誌の編集委員会を代表して、私が記した序文である。

 私は、学生時代、細菌学を小林六造教授について学ぶ傍ら、志賀潔先生の「細菌及免疫学綱要」を副教本に選んだが、志賀先生の麗筆になる「細菌学者歴伝」からは、殊のほか強い感銘をうけました。

 終戦後故郷の仙台に隠棲されていた志賀先生をお迎えして、昭和26年に満80歳の賀宴が北里研究所で催された際、先生の直弟子であり私にとっては恩師である滝田順吾先生のお手引きで志賀先生にお会いして、愛蔵の「細菌及免疫学綱要」にサインをしていただいた。

 その後、私は北里衛生科学専門学院および北里大学で、微生物学の講義をするようになってから、屡々「細菌学者歴伝」を引用して研究の苦心と醍醐味を学生に成るべく理解させようと努めた。

 「細菌及免疫学綱要」は、昭和16年の6版以降刊行されていないのを惜しんで、同学の田口文章教授が出版元の南山堂書店と志賀潔先生の御遺族、志賀亮先生の快諾を得て「細菌学者歴伝」の用語を現代向きに改め、「北里メディカルニース」に連載した。

 志賀潔先生の次男で晩年の先生と起居を共にした志賀亮氏からは、簡潔な志賀先生一代記が届けられ、巻末を飾ることができた。「細菌学者歴伝」が月々上梓されるにつれ、果然多数の細菌学教授の方々より学生にも読ませたいから、一本にまとめて刊行してほしいとの要望が寄せられたので、田口文章教授は、かねてよりの自分の考想「科学者への道」を追記して、この一本がまとめられたのである。

 このように多くの人の熱意と好意に支えられて、若き学徒に先学者の苦心と精進を伝え向学の激励をされようとした志賀潔先生の気のこもる「細菌学者歴伝」が、装いを新たにして広く世に分布されることになった。読者各位が味読され深い感銘をうけられることを冀っている。

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1.アントニー・レーウェンフック

Antonie Leeuwenhoek (1632-1723年)

 

 レーウェンフックは、1632年オランダのデルフトに生まれた。父親は醸造家であったが早く死に、母の手で育てられた。16歳で学校を中退し、アムステルダム市の乾物屋の雑役人となった。21歳の年にデルフトに帰って自分で洋服屋の商売を始めたが、レンズを磨くことが好きで、独学できわめて簡単な顕微鏡を造り上げた。その拡大力は、270倍に達したようである。彼はこの顕微鏡を使って、歯垢シコや汚水などの検査をし、種々の形態をした微細な生き物、すなわち、細菌を視て独りで楽しんでいた。彼は毎朝食塩で綺麗に歯を磨いていたが、それでも、その歯垢に小さな生きた動物が生活しているといって喜んでいた。

 ある老人が、生まれてこのかた、歯を磨いたことがないというのを聞いて、「おお、その臭い動物園には、さぞ色々な動物が繁殖しているだろう」とワクワクしながらその歯垢を分けて貰い、すぐに自分で作った顕微鏡を用いてのぞいたという。

 歴史家は、彼が母国語のオランダ語以外に他の外国語を知らなかったことが、幸福と言っている。当時の博学者・高学歴者と称する人達は、ラテン語を話して得意となっていた。レーウェンフックは、こうした高等教育を受けなかったこと、またその時代の博学というナンセンスから遠ざかっていられたからこそ非常識と思える大発見を成し遂げられたのである。彼は自分一人で次から次へと顕微鏡を改良工夫し、製造した250台の顕微鏡を自分の秘密の室に並べて一人で楽しんでいた。お金ならいくらでも支払うから一台譲ってくれといっても、たとえば、王侯貴族より依頼されても、一台とも手離そうとはしなかった。彼は85歳の高齢に達した時、もう85才なのだから顕微鏡をのぞく事を止めて楽隠居でもしたら良いでしょうと友人が彼に勧めると、彼は目を円くして「最も実り多い時期というのに、隠居!」と答えたという。人間85歳は、レーウェンフックにはようやく秋であったらしい。1723年91歳にて死期が近づいた時、彼はホグプリートに自分がオランダ語で書いた論文二編をラテン語に訳して貰い、英国ロンドンにある王立アカデミーに論文を投稿することを依頼して死を迎えた。

 

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2.ラザロ・スパランツァニー

Lazaro Spallanzani (1729-1799年)

 

 顕微鏡を発見したリューベンフックの死後6年 (1729年) 後に、イタリアの北部スカンディアノに第二の細菌学者スペランツァニーが生まれた。父親は彼を将来法律学者にしようと考えていたが、彼は子どものころから自然科学に興味をもち、生き物はどのようにして誕生するのかに疑問を感じ、これを解決しようと決心していた。16世紀以来一般に信じられていた生物は無生物よりできるとの自然発生説は、英国の生理学者ハービーが1650年に唱えた「すべて動物は卵より生ずる」との新原則により世界の博学者達は多少動揺してきた時代でった。英国のカトリック神父で、実験を好む学僧であった。ニーダムは、盛んに自然発生説を固持ていた (1745年)。煮沸した肉汁をコック栓で密閉して置いた物を、数日後顕微鏡で調べてみると、小さな生き物が活発に運動しているのが観察された。そこでニーダイムは、これを無生物より生物が発生した実験的証明だと考え、こおどりして喜びこの実験結果を英国王立アカデミーに報告した。

 このニーダムの発見は、英国王立アカデミーの会員及び世界の有職者を大変に驚かし、世界中いたるところで評判となった。ところが、スパランツァニーだけはこれに納得せず、必ずニーダムの実験には誤りがあるはずだと信じ、どうして生物が発生したのか一夜書斎で考えた。そこでニーダムの実験で煮沸時間が少なかったのが原因ではないかと思いついた。そこで肉汁をガラス瓶に入れて1時間煮沸し、またこれを密閉するのにニーダムはコルク栓を用いたが、ニーダムはコルクの代わりにガラス瓶の口を細くし、これを火で熱して溶封した。この肉汁は何日たっても遂に腐敗せず、小さな生き物の発生も観察されなかった。

 このようして、スパランツァニーはニーダムの実験をくつがえし、「総ての生き物は生き物より生ず」という原理を樹立した。これを契機としてスパランツァニーの名は全欧州に響き渡り、当代第一の科学者となった。ドイツのフリードリッヒ大王は新書を送って、スパランツァニーをベルリンアカデミーの会員に推挙した。一方、ドイツのフリードリッヒ大王と何ごとにも競争するオーストラリアの女王 マリアテレサは 、スパランツァニーをパビア大学の教授に任命して、フリードリッヒ大王の向こうを張ったという。

 この時 スイスのドサウスュルは、“微生物は2個が会合して、殖えるのではなく2個に分裂して増殖するのである”とのを考えを発表した。さすがのスパランツァニーもこのドサウスュルの先見性には敬服した。元来、スパランツァニーは、他人が有名になることを喜ばぬ性格であったが、ドサウスュルのみは尊敬していたという。

 フランスのナポレオンが世界征服の途につこうとする年、またドイツのベートーベンが生まれた年の1799年に、偉大な発見者スパランツァニーは中風が原因で死亡した。エジプトの歴代王は、自分の遺体をミイラにして永遠に伝え、またギリシャ人やローマ人は立派な自分の大理石像を作らせて後世に残させた。これに反し、スパランツァニーの小さな胸像がパビア大学に淋しく立っている。

 

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3.ルイ・パストゥール

Louis Pasteur (1822-1895年)

(1)

 

 スパランツァニーの死後 (1799年) 約30年間は、微生物の研究が全く世間から忘れられていました。その間に蒸気機関の発明や、電信の開通があって、世は交通貿易の発達におどろくべき発展があった。しかし、顕微鏡でしか見えない微生物に人体をたおす偉大な力があること、更にデンプンからアルコールを造る魔力のような力のあることを末だ誰も知る事はなかった。

 1831年10月のある日、9歳の子どもが、フランス東部の一山村において8人の農夫がつぎつぎと狂犬に咬まれて死亡した惨状を見て、その狂犬の恐ろしさを目のあたりにし、狂犬とはなんだろうと父親に聞いた。父親は狂犬病は悪魔の仕業であると答えた。その子供こそ、後の大細菌学者ルイ・パストゥールであった。

 小学生頃のパストゥールは、注意深い静かな性質で、好んで絵を描いていた。パリに上京してフランス一番の名門校である師範学校に入学した時のある日、デューマの化学研究室の前を偶然に通りかかった。その時デューマの偉大な人格を慕い化学に一生をささげることを決意したのである。その後パストゥールは、化学実験において酒石酸は2種類結晶以外に、更に2種類あることを発見して、この時すでに非凡な才能をあらわした。当時すでに、カニアーやシュワンは酵母やブドー酒を検査して微細な生物の存在を認め、シュワンはブドー酒が腐敗して飲めなくなるのるはこの微生物の作用によることを見抜いていた。

 パストゥールがストラスブール大学の教授となり、ストラスブール大学の学長の令嬢と結婚したのは、歴史上希にみる幸福な家庭をつくる第一歩であった。パストゥールは、日夜自分の研究室で研究に没頭しいたが、夫人は、彼の留守の家庭をよく守り夫が将来大成功することを心から祈っていた。その後、パストゥールはリール大学理学部の学部長に転出した。

 リール市は、ブトー酒の醸造で名高い所である。ある日、醸造家ビコーが、パストゥールの研究室を訪ねて言うには、今やフランスの多くの醸造家達は大災害に遭遇している。一日に数千フランの大損害をこうむっているから、ぜひ救済の方法を講じくれないかと依願した。パストゥールは静かにこれを聞いていたが、翌日はそのビコーのブドー酒庫を訪ねていた。その腐敗したブドー酒をビンにつめて研究室に持ち帰りしきりに顕微鏡を使って、その腐敗したブドー酒を検査した。彼は腐敗酒の中に酵母のほかに、見慣れぬ酵母より小さな微生物が無数に運動しているのを見て、カニアーの説を思い出した。その動く微細な物が何物であるかを知ろうとし、その夜は、睡眠をとらずに研究に没頭した。翌日も研究室内にいて徹夜をし、腐敗酒にアルコールが検出されず乳酸が存在するのを証明し、机をたたいて喜び「酵母は澱粉よりアルコールを造るものであるが、この微細物は乳酸を造るものだろう」と叫しだ。この発見により人類史上ブドー酒が腐敗する醗酵という現象の意義がようやく明白になろうとする機運が生まれた。この微細な物は生き物で、糖を乳酸に変化させるものであった。

 

(2)

 パストゥールが、ブドー酒などの発酵は微生物の生きた作用であることを発見し得たのは、彼が化学的出身者で生物学へ入っていくための彼にとって最も有益な事柄であった。パストゥールがこれをパリ科学院雑誌に報告すると、すぐに彼の名声は一時に学界をかけめぐった。

 パストゥールは研究室に研究助手も技術員もいないので、ただ独りで働いていた。自ら手を下してフラスコなどをを洗い、あるいは機器を組み立てもした。その間にあって彼の夫人は、彼の唯一の研究補助員であった。毎晩子供を寝かせた後机に向かい、夫の口述した内容を文章に直し、夫が研究室にいる間にその報告書を清書する毎日であった。彼女は、全生命を夫の研究に捧げていたのである。

 パストゥールは、自分の母校であるパリの師範学校の理学部長に就任した。しかし、転任してみると、研究室も研究費も全くなかった。パスゥールは学校の屋根裏に小さい部屋を見つけ、ネズミを追い出し、自分の費用で顕微鏡やフラスコを買い研究を始めた。

 その当時、化学者の法王と全世界で尊敬されていたドイツのリービッヒは、彼得意の純化学的仮説をもって糖分子がアルコールに転化するには酵母は必要ではない。単に蛋白質の作用により糖の分子は転化してアルコールとなると発表した。リービッヒの仮説は、パストゥールの醗酵説に対して大敵であった。

 パストゥールは蛋白質が存在しなくても単に糖の水溶液に酒石酸アンモニウムを加えれば酵母は増殖してアルコールを生じ得ることを証明するために、殆んど寝食を忘れて研究に没頭した。その間彼の賢夫人は、助手となり伴侶となってパストゥールの研究を助けた功績は偉大なものであった。パストゥールは、酵母が生き続けられ得る時間を知ろうとして6月より9月までの3か月間は、くパリの社交場に足をはこばなかった。しかし、夫人はこれに少しも不満を言わなかったことはもちろん、夫の研究に興味をもって夫を助けたのであった。「糖を充分に加えるならば、酵母は3か月間あるいはそれ以上もその働きを停止せず」と結論を得たのである。

 こうして、「フランスで醸造される幾百万ガローンのブドウ酒も、ドイツのビールの太洋のごとき量も人が造るのではなく、極めて小さな微生物が造るのである」と、彼は得意に周囲の人に話した。これを契機にパストゥールの名は一挙に高くなり、彼のかっての先生達も最大の表現で彼をほめたたえた。なかでも、旧師デューマは狂わんばかりに喜び、公開講演会において我がフランスの最も偉大な学者の一人である、とまで彼を賞賛した。これは学会の美談で、これによってわれわれはフランス人の国民性をうかがうことができると思う。

 キリスト教の教義が、科学の発達を妨害したのは事実である。科学者の研究は、馬鹿げたほど宗教の迫害にあった。自由であるべき科学者の発表が、いかに宗教のためにそくばくされたか、この迫害やそくばくのあったヨーッパに科学が発展し、かえって、自由であるかのようにみえる日本を含む東洋の天地に科学が発達しなかったのは不思議な現象というべきである。パストゥールが発酵が微生物によるものであることを明かにし、また、ブドー酒などの腐敗が雑菌の作用によるものを証明し、この雑菌が空気中に存在することを唱えたところ、宗教家は自然発生説の敵、宗教のかたきと叫んだ。神はそのような無用のものを造ったはずがない。更に人体に有害である生物を造るはずがない、とも叫んだのである。

 そうして、パストゥールは、カトリックの敬けんな信者であったため、牧師・神父などの反対には少なからず困惑を感じた。当時のキリスト神父もブドー酒を好んで飲んでいたに違いない。しかし、彼らは神がブドー酒を飲む者をこらしめるために、細菌を造ってブドーを酸敗させるのであると説明する勇気がパストゥールにはなかったとみえる。それでもパストゥールはなおも熱心にブドー酒の腐敗は、空気中の雑菌が混入するためであることを証明するための実験を続けた。自然発生説論者が主張する空気を遮断するために無機物、蛋白質などから微生物が発生しなくなるのだ、ということに反証する目的で、フラスコの口を引き伸ばしてそれを火で加熱すれば、腐敗しないことを証明した。しかし、反対者は、空気を熱するとその生命発生の活力を失うためだとパストゥールを功撃した。

 ある日、バラー教授が、パストゥールの研究室を訪ねて来た。バラー教授は薬物学者で Br原素を発見し学界を驚かした人である。彼がパストゥールの実験を見て、『君は一人でそれほどまでに苦労する必要もあるまい。フラスコの首を火炎で加熱し、引き伸ばして、ツルの首のように曲げてみたまえ。雑菌は空気中のゴミとともに長い首のところに付着するが、空気はフラスコの肉の「スープ」にまで自由に達することが出来るが、スープが腐敗することはなかろう』と言った。その時、バラー教授は鉛筆を取って気軽にツルの首のようにしたフラスコの図を描き、明日また来て見ようと言って帰った。パストゥールは バラー教授の言うとおりの、実験を早速してみた。実験は見事に成功した。バラー教授は、これを見て喜んで言われた。なるほど、これは空気中のゴミとともに雑菌がこのフラスコの細い首に付着したためである。パストゥールは、全くそうであると信じたい、しかし、それをいかにして証明できますしょうかとたずねた。バラー教授はそれはむずかしくないことだ。この数個のフラスコの1個を取り、斜めにして、内に入っている肉の「スープ」が、首のところまで流せば、必ず「スープ」は腐敗するであろう、と簡単に言ってのけた。パストゥールはそのとおりに実験をした。結果は、また、見事に成功したのであった。

 しかし、自然主義者達は、パストゥールの考えに反撃しようと時期をうかがっていた。たとえば、プーシェ(ルーアン博物館長 )、ジョリー教授とムュゼ (トゥルーズ大学の自然主義者) は、共同してパストゥールに反撃してきた。彼らはパストゥールの実験と同様に、ただし酵母の代わりに枯草の煎汁をフラスコに入れて、その細い首を閉じた。ご苦労にも微生物のいるはずがないと思われるピレーネ山脈のマラデッタ高地の頂上にまでよじ上って、山頂にてその細い首を折り、辛うじて下山し、これをフランキに納めた。数か月の後に微生物が発生してフラスコの内容液が濁ったのを見て、彼らはパストゥールに対する勝利の声をあげたのであった。彼らは、パストゥールの報告に挑戦する目的で、パリ科学院にて会員の面前において公開実験をしようと申し込んだ。

 その申し込みを受けて、パストゥールも自分の実験を再度行ない、再現良く満足な成績を得た。数日の後科学院専門委員会は「パストゥールが実験し、そしてプーシェ、ジェリーヒとムユゼ達により確かめられた実験結果は、正確であった」と結論を出した。敵も見方も、等しく正確なりとの結論はおもしろい。英国人チンダルが、枯草煎には枯草菌なる細菌が存在し、これに強固な芽胞が存在することを発見したのは、その後数年のことであった。このような経緯から、パストゥールの自然発生説を否定する実験の正確なことが、初めて立証されたのである。

 

(3)

 パストゥールは、コンピーニュ宮殿で皇帝ナポレオン三世に拝謁した。会見のあと他の客はみな動物狩を楽しみに出て行ったが、パストッールは一人宮殿に残り、パリより荷車で運ばせた機器のなかより、顕微鏡を取り出して色々な標本を皇帝に見せて説明した。「病気は必ずこのような微生体により起るものであろう」との意見を申した上げたという。

 ある夕暮パリ・ソルボンヌ大学において、学術講演会が開催された。そこには親王妃殿下をはじめ、著名人紳士数百名もの聴衆があった。パストゥールはプロジェクターで多くの細菌を示した後、会場を暗くして、会場の一方のより細い光線を入射させ、その光道に細かなゴミの跳躍する様子を示して、「聴衆諸君よ、この会場は、こんなにゴミが充満している。このゴミは、時として病原体を付着しており、病気と死の原因となるものである。」と説明した。宮中での大宴会においても、パストゥールは皿やホークをナフキンで丁寧に拭って清めていたと聞く。自分信念の堅固な実行者であった。

 科学はぜいたくな遊戯でも趣味や道楽でもなく、国家を益するために存在するものである。この考えを示すために、パストッールは助手のデュクローと一緒に、パストゥールの故郷アルボアに行き、ブドー酒の研究を始めた。ガスもない片田舎のアルボアにおいて、デュクローは種々と工夫して小さな研究室を造った。酸敗したもの、苦味のもの、粘稠のもの、油状のものなどのブドー酒を取り寄せて研究を開始した。 パストゥールは、ある日ブドー酒の鑑定家達を集めて、「私はブドー酒の腐敗したものをこの顕微鏡であてるから、諸君のプロの鑑定と比べてみよう」と言い出した。鑑定家達は、赤い丸い鼻で臭をかぎ分け、更に舌に載せて味わって出した結果と、パストゥールがただ1滴のブドー酒をガラス板の上に載せて顕微鏡で観察して出した結果は、ぴたりと一致した。顕微鏡によるこの結果をみて、赤鼻先生達は、驚異の目でパストゥールを見た。彼等がパストゥールを評して、「さても、さても……利口な男だ」と、大いにほめ賞したと言うのは無理もないことである。

そこでパストゥールは、どうすればブドー酒の変敗を防ぐことが出来るのかを知る研究を開始した。彼はデュクローとともにブドー酒の発酵が終わった時、そのブドー酒を沸騰点以下で数回加熱して、消毒する法を発明した。この方法はブドー酒を変敗から救済した醸造家への福音で、以降現在に至るも"Pasteurization低温殺菌"と呼ばれるものである。この方法の確立によって、フランス国家に巨万の利益をもたらしたことを考えると、科学の魔力的偉大な力に驚かぬ者はいなかろう。

 

(4)

 1865年に不思議な運命が、パストゥールを訪れた。彼の恩師ディーマは、パストゥールに絹を作るカイコの病気を解決する方法で相談に来た。ディーマ翁の故郷アレー地方は、南フランスの有名なカイコの産地であるが、微粒子病と称する伝染病のまん延によって、カイコ事業は殆んど全滅の危機に陥ったのであった。ディーマ翁は涙を流して、懇願しフランス国家のみならず地方の救済のために、パストゥールを動かし新しい活躍の場を与えようとしたのである。パストゥールは、翁の持ってこられたマユを取り、耳に当てて振りこれはおもしろいものだとして直ちにに南仏へ行くことを決心した。例になく、夫人、子供と助手とを伴って アレーに行った。 ここで、パストゥールは、初めてカイコの飼育方法や桑の樹 (アレー地方では金のなる木と呼ぶ) を見た。また、カイコの病気状態は、皮下組織に存在にする微粒体によることを発見した。すぐに農民達に顕微鏡の使用方法を教え、微粒子の検査方法を示し、カイコ病の予防法を講義した。その後、助手のグルネはパストゥールの研究を継続し、微粒子は生物でカイコの幼虫体内において増殖することを確認し、微粒子による病気の予防法を確立するに至った。

 この年、パストゥールは43才のとき不幸にして脳出血で、殆んど瀕死の重体に陥った。研究室ができあがった時に幸いにして回復に向った。ついに一生半身不髄となってしまった。しかし、彼は、転地養生もせず、スマイル博士の自叙伝を読んで奮起し、回復不可能な病体で再度研究に猛進しようと決心した。 ディーマ翁はパストゥールの成功をみて涙を流して喜んだという。アレー市に偉大な科学者パストゥールの功績を永遠に伝えるために彼の銅像を建てたのはこの時である。

 パストゥール45歳の時、カイコの微粒子病の研究は終り、今や彼の研究は人類に向けられていった。病気は寄生する小さな生き物によって起こるものである、微生物は自然に発生するとの考えを実験で否定出来たのであるから、この考えで人の病気を撲滅して、全世界を健康な地とすることが出来ない筈がない、とパストゥールは考えた。

 1870年の冬、パリがプロシア軍に攻撃された時、パストゥールは研究を捨てて故郷に行き、自分の子が軍医として働いている軍隊を見舞った。そこで傷病兵の惨状を見て、彼の愛国心は猛然と燃えあがった。「プロシアにくむべし、復讐しないでいられるか。」と叫んだ。彼が「ビール」の改良を考えて、ドイツビールをうちまかしフランスビールを世界一のものにしょうと研究したのは丁度この時であった。彼が祖国フランスを強めるのために、フランス工業の振興に努力したことを見逃すことはできない。

 英国の外科医リスターは、パストゥールに手紙を送って、「化膿の原因は微生物によるとのパストゥールの説より出発して、この考えを外科手術に応用して非常な成功を収めた」ことを報告した。化膿は微生物に原因するとの説は、医学に与える功績は獏大な真理である、と賞賛した。パストゥールはこの手紙を読んで、子供のように小躍りして喜んだ。

 ここに、パストゥールを激怒させた大事件が起こった。フランスが世界に誇る大生理学者クロード・ベルナールが死亡したのを機会に、友人が集まってベルナールが完成出来なかった研究の遺稿を出版した。その遺稿集の中にパストゥールの酵母の発酵を否定する実験の記載があった。パストゥールはこれをみて、パストゥールが同窓として親交を重ね、かつ互に意見交換して学界のために尽してきたこの親友が、自分の説に反対する理由など存在するはずがないと考えた。そこで、彼はベルナール自身の手書きの原稿を取り寄せて慎重に調べた結果、それは出版社の書き誤りであることを発見した。それでようやく彼の極度の興奮した感情をしずめたという。パストゥールが自分を信じることがいかに強固であったかをみるこができる。

 パストゥールは、常に自分から実験する人であった。したがって机上の空論などは、 彼の眼中にはなかった。彼は大金を投じて硝子を買い、移動式温室を造った。これをたずさえて、夫人及び助手とともに、アルボアのブドー園へと急いだ。時は丁度夏の真っただ中でブドーの房はまだ熟していなかった。彼は、温室とブドーの木も良く消毒し、温室に消毒したブドーの木を植えた。ブドーの成長するのを待って、再びアルボア地を訪ねた。温室内のブドーと実験対称的に温室外にあるブドーを収穫した。夫人に汽車でパリまで運ばせて自から試験を開始した。予期したように、温室内で成長した消毒ブドーは酵母を持たないから発酵しなかったが、温室外で成長したブドーは発酵してブドー酒を造った。パストゥールは、ブドーを酵母から隔離することで発酵を喰い止められることを実験で証明した。彼が実験において真剣だったのは、この一事でも分かる。こうして、彼は、ベルナールの説を完全にたたきつけたのであった。

 パストゥール彼が人類の疾病の研究に向おうとした丁度その時、ドイツの片田舎の開業医ローベルト・コッホが新しい方法を考え、微生物の純粋人工培養に成功した。これはパストゥールも考えていたが、いまだ成功し得なかったのであった。パストゥールの研究は、こうして、ここに一大転換と発展をみるに至ったのである。

 

(5)

 パストゥールは天才的研究家で、何ごとも深く考え、その真理の珠を補えなければ止らず、一寸でも真理の輝きを認めれば、消防自動車が火事場に向かってうなりを立てて走るように、脇目もふらずに突進するのであった。これに反し、コッホは冷静な性格で、着実に実験の階段を踏み堅めて一歩一歩と進むのであった。 パストゥールは、性格からどんな小さな事実も見逃すまいと常に努力していたので、彼の頭脳は休む暇がなかった。

 パストゥールは、元来化学者であったが、糖発酵の原理をつきとめ、ブドー酒及びビールの醸造方法を改良して、ブドー酒の酸敗する原理を確立した。また、更にカイコ病の原因とその予防方法を定めた後、微生物による疾病をいかにして予防し、また、いかにして治療すべきかを考えていた。丁度この時期に彼は、血気旺盛な3人の若い助手すなわち、ジュベール、ルーとシャンベランを得た。

 ある日、東部フランスの山奥にいる獣医 ルーブビェールが、炭疽病にかかった牛を治すと言うので、それを見に行った。この獣医の治療法というのは、先ず病気の牛の体を手でマッサージして温め、次に皮膚を少し切ってそこにテレビン油を塗り、最後に毛布に酢を浸して牛の体を包むのである。パストゥールは、これを見てルーブビエールと一緒に実験に取りかかった。4頭の健常な牛に炭疽菌の培養したものを注射して発病させ、その2頭はルーブビエールに治療させ、他の2頭を対照としそのままにした。その結果は、治療をした2頭の中、Aは快復しBは死んだ。対照のCは助かりDは死んだ。パストゥールは「もし、君がAとCに治療を施したのであれば、大発見をしたところだ」と、ルーブビエールをからかったという。

パストゥールは、この快復したAとCの牛に、もう一度炭疽菌を注射してみた。注射したその局部にもなんの反応も起こらず、2頭の牛は健康であった。この時、パストゥールは、初めて予防注射のことを思いついた。牛を極めて軽く病気させれば、免疫にすことができると考えた。1878-1880年、彼は炭疽病に対するワクチンを試作して、病気を防ぐ予防注射に成功したのである。

 鶏コレラの病原菌はペロンシトが発見した。パストゥールは1880年に鶏コレラの予防法を考えた。ある日、鶏コレラ菌を培養して数週間放置してたった古い培養液を鶏に注射した。翌日、注射されたニワトリに発病の徴候はあったけれども、その次の日には全く快復しているのを見て、心のなかでシメタと思った。その時は丁度夏休みで、ルーとシャンベランとは旅行に出て居て留守であった。パストゥールは自分一人で鶏コレラ菌を注射した後快復した鶏と健常な鶏とに致死量の鶏コレラ菌を注射した。翌日夜の明けるのを待って、研究室に飛んで行きニワトリを観察した。丁度この朝、ルーとシャンベランは旅行から帰って来た。彼ら二人がパストゥールより後れて研究室に行ってみると、早く来て見よと呼ぶパストゥールの大声が動物小舎から聞こえた。二人は急いで行ってみると、パストゥールが、昨日鶏コレラ菌を注射したニワシリのうち、健常であった未処理の鶏は死に、その前に古い鶏コレラ菌を注射し発病後快復したニワトリは健全である。これの現象は、何を意味するのであろうか?。彼は、このようにして疾病の予防に成功したのである。この方法は、培養した細菌をもっておこなうものであるからジェンナーの天然痘に対する牛痘ウイルスを用いるワクチンよりも確実で、そのうえ、科学的であるとパストゥールは説明した。この時、パストゥールは58歳であった。

 当時の学者は、ラテン語やギリシャ語を話して、得意になっていた時代である。パストゥールは、ある日フランス医学院で講演し、集った聴衆の医学者連に鶏コレラの予防実験の結果を示した。すると青衣を着けた老医学大家達は、ニワトリの実験などを見せつけられたので、軽蔑されたと憤慨した。80歳になる外科医の老大家ジュール・ゲランのごときは、パストゥールの不遜な言葉にかっと怒り出し、自分より20歳も若いパストゥール目がけてまさに鉄挙を下そうとした。しかし、友人らに制止されたので、乱闘にいたらずにようやく納まった。それでも納まらぬのはゲラン翁であった。翌日ゲランは、パストゥールに決闘状を送りつけた。ゲランからの決闘状を受け取ったパストゥールは、これをフランス医学院の書記に送って処分させ、一向に取り合わなかった。学問は決闘によって決するべきものでないことを教えたのである。

 パストゥールの指示を受けて、ルーとシャンベランの二人の助手が、炭疽菌の毒力を弱めて、ワクチンの製造に成功したのは1881年である。 パストゥールは、これをフランス科学院に報告した。ゲランとの喧嘩以来、彼はフランス医学院に行くのを止めた。この報告を読んだ有力な獣医雑誌の編集長であったロシニヨールはフランス農学会において演説して、 パストゥールの実験結果が果たして真実であるならば、フランスは炭疽病のために、毎年二千万フランの大金を失っているからパストゥールの研究成果は真に国家への一大福音である。しかし、もしそれが間違いであったら、彼の高言を取り消させなければならないと発言した。

 これを聞いた、パストゥールは奮然と立って、予防接種実験を大々的に行なうことを決心した。パストゥールはルーとシャンベランの二助手を伴い、プイリールホォールの牧場において48頭の綿羊、2頭の山羊及び数頭の牛に炭疽ワクチンの注射をした。議員達、学者達、獣医師等及び数百人の農民がこの野外大実験を見ようと集まった。パストゥールはビッコをひいて (脳出血快復後のこと) そこに来た。ある者は彼に同情し、またある者は苦笑した。この群集の中にロンドン タイムズの新聞記者ブロービッツもいた。

 パストゥールは、用意した家畜の半数に第1回のワクチンを注射した後、見物人に用いたワクチンの説明をした。12日後再び見物人の前にて第2回目のワクチンを注射した。若い助手テュイリエールは、毎日実験家畜の体温を検査する役目をおうせっかったが、幸いにして発熱する動物を見出さなかった。この間にルーとシャンベランの頭には、白髪が増えたという。そのようなこともあり得るであろう。パストゥールは、「この実験に成功すれば祖国の名誉のため、また更には応用医学の最も偉大な発見となる」 と固い信念を持っていた。彼の友人の中には「ナポレオンのように偉大な我々の父パストゥール」 と言って、彼の肩をたたく者もあった。

 1881年5月31日、試験家畜にも対照動物にも同じように強毒な炭疽菌の致死量が接種された。さすがにこの夜だけはパストゥールも、一晩中眠りもせず、また夫人のなぐさめの言葉も耳に入らず、独り黙々として試験の結果を気遣いつつ夜を明かしたという。

 1881年6月2日は、パストゥールの研究に対する判決の出る日であった。大臣議員など何百人もの観衆が集った。ロンドンタイムズのブロービッツ記者も来ていた。午後2時パストゥールは、助手を伴って実験場に現われた。羊の群は一頭ずつ検査されるのであった。ワクチンをされた24頭の綿羊は全て普通にはね廻り草を食べていた。それとは対照的にワクチン注射をされなかった同数の綿羊は、皆歩みも弱々しく見るもあわれな状態で、しかも口や鼻より出血する動物さえいた。こうして心配されていた予防注射試験は、大成功に終った。パストゥールをののしり、または彼に反対した人々は、今日は皆口をそろえてパストゥールをほめたたえ、自分の不徳をわびるのであった。

 ブロービッツ記者はロンドンタイムズに電報を打ち、「ピュイリールホールの公開実験は、期待を上回る大成功であった」と、通信した。この報道はやがて全世界に伝わった。フランス政府は、レジオンドンヌール勲章を与えてパストゥールの功績をほめたたえた。

 炭疽病ワクチン接種は大規模に計画され、パストゥールの研究室で多量にワクチンを製造した。 ルー、シャンベラン、テュイリエールの三人の助手は、これをかついで各地に出張し、数十万頭の山羊や綿羊にワクチンの注射をした。

 パストゥールは、更に狂犬病の研究に没頭しつつあった。そんなある日、予期せぬニュースがパストゥールの耳に入って来た。それは、ワクチン注射を受けた山羊や綿羊が、炭疽病を発症したとの各地方からの報告であった。報告書は、パストゥールの机上にうず高く積まれる程に多かった。パストゥールは、その原因を追究しようと努力したが解決できなかった。 1882年パストゥールは、スイスのジュネーブで炭疽ワクチンの講演をした時、会場にいたローベルト・コッホが立って「パストゥールの演説内容について反対意見がある。これは他日雑誌上に報告する」と述べた。果せるかな、コッホのパストゥールに対する反論が、医学雑誌に現われた。「パストゥールのワクチンⅠ号及びⅡ号は、パストゥールが言うようにはマウス、ラット、およびウサギに対する毒性が一致しない。またワクチンは雑菌が入っていた。これは学問上許されることではない」と手厳しく論じていた。パストゥールはこれに答えて「コッホ」の生まれる20年も前から我が輩は、細菌の培養法及び分離法に手を染めている。コッホより我が輩のワクチンに雑菌が入っていると批評されるのは心外であると弁明した。しかし、パストゥール自身コッホが細菌学の能力に優れていることは認めていた。

 フランス国民は、コッホの言動に反抗してかえってパストゥールをより偉大にさせようと、彼をフランス学士院会員に推薦した。ここにフランス人の国民性の本質を学ぶことができる。時の評論家エルンスト・ルノーは、「君!真理というものはふざけたもので、つかまえたと思うと逃げ出し、見つけたと思うと姿を消す、あきらめればまた現われ、一生懸命に自分の味方にしようとすればするほどガン強に抵抗する」とパストゥールに忠告した。この言葉もまた真理なのである。

 

(7)

 パストゥールが狂犬病の研究に着手したのは1882年で、すでに60歳になっていた。おそらく少年時代の彼の脳底に深く彫まれた農夫が狂犬におそわれたひさんな出来ごとが、狂犬病研究の動機となったのであろう。ある日狂犬病に掛かっている犬を研究所に連れて来きて、他の健康な犬を噛みつかせた。ルーとシャンベランは、狂犬にかまれて狂犬になった犬の唾液をウサギやモルモットに注射した。何回かの繰り返し後パストゥールは、「狂犬病の病毒は神経の中枢に存在するに違いない」との確信を得た、とルーに語った。そして、狂犬の脳をウサギの脳に接種させた。ウサギの頭に穴を開け、そこを通して狂犬の脳を接種した。3週間後、脳に注射されたウサギは麻痺を示して死んだ。こうして、狂犬病の病毒は人工的には培養出来ないけれどウサギの脳に接種することで病毒を保存出来ることを証明したのである。

 こうしてパストゥールは、実験の基礎条件を確立し得たので、いよいよ本実験に取りかかった。「ヘコたれるな」と弟子のルーを励まし、狂犬病の病毒をウサギに何百回と繰り返し接種しているうちに、病毒を接種してから発病までの潜伏期が短縮することを偶然発見した。潜伏期間の短縮は病毒の性質が変化したことによると考え、この変化したと考えられる病毒を犬の脳に接種した。病毒が確かに弱まっていることが確認できた。しかし、その犬も最後には発病して死亡したことより、完全に無毒になったという訳ではなかった。パストゥールは、病毒を無害にする困難な問題に遭遇したが、研究から一歩も退くことをせず、意志はますます強固となるばかりであった。次に彼はウサギに接種した狂犬毒を、乾燥してみることを試みた。水酸化カリウムを入れたビンにウサギの脳をつるして、乾燥させ1日、2日と乾燥させた脳を犬に注射することを続けた。遂に14日間乾燥させた脳は、全く無毒となり注射した犬は発病しなかった。一日毎に乾燥させた脳を犬に一つ一つ接種し、3週間から4週間の潜伏期が過ぎ発病するか発病しないかを待つのであった。この忍耐力のいる試験に打ち勝った天才パストゥールの根気に、おどろかぬ者はいないであろう。

 狂犬病の試験にとりかかって、第3年目の終わりになって、初めてウサギの脳への接種法と乾燥法とによって得た弱毒のワクチンを注射した数頭の犬は、完全に強い免疫となった。これに強毒な狂犬病を接種したが発病しなかった。この証明を得て、初めてパストゥールの努力は酬いられたのである。

 この実験期間中に彼の老化が、一段と進んだ。彼は実験中に大声を発し、「数年来継続しているのに実験から何の成績も得られず、私は日に日に老いゆくのみである」と、ひとり言をよく言うようになった。強固な意志と誰よりも強い自信家の彼にこの言葉があり、その試験がいかに困難であったのか、また彼がいかに悩んだかを知ることができます。

 パストゥールが狂犬病をワクチンで予防する方法の確立に成功した1884年、夫人は娘に書いた手紙に「あなたの父上は、日も夜も狂犬病のことのみを考えていて、誰とも話しもしなければ、夜も充分に眠りもしない、横になったと思えばすぐ起きあがる。このような生活が私が結婚して以来35年間も続いているのです」と記してあった。夫人の苦労にも、また一しずくの涙をさそわれる。

 ワクチンによる狂犬予防法をフランスにいるすべての犬に実施すれば、狂犬病は姿を消して人への危険がなくなるはずあると、パストゥールは考えた。これを獣医師ノカールに相談した。それは不可能です、パリ市内だけでも、犬の数は10万頭、フランス全国では250万頭もいます。犬一頭ずつに14回ものワクチン注射をする人手がありません。もし実施するとしたら幾年かかるか? またワクチンを作るために幾頭のウサギが必要でしょうか、とノカールは質問をした。さすがのパストゥールも、この話を聞いて初めて難しさに気が付き、そうであるならば狂犬に咬まれた人に予防注射を行なうこととしよう。この方法ならば実施も簡単であると、ワクチンによる治療法の研究の開始を決心した。そこで、狂犬に咬みつかれた犬と強い狂犬病毒を注射した犬とに、14回の予防注射を試みた。ワクチン接種された犬はすべて発病をまぬがれ、対照の未接種の犬はことごとく発病して死んだ。

 パストゥールは、先に炭疽病ワクチンで苦い経験をしたので、この狂犬病予防接種法を、まず最初にフランスの最高医学者の専門委員会に提出した。委員会がワクチンの効力を承認したので、ようやくワクチンを人体に応用することになった。その第一号の人体実験者には、パストゥール自身がなろうとまで決心した。しかし偶然にも、アルザス州のフォン・マイゼンゴット夫人が9歳の自分の子供をだいて、パストゥール研究所に駆け込んで来た。この子供の名前はヨゼフといい、2日前に狂犬に14か所もかみ傷を受けたのである。パストゥールは、この子供をブルパンとグランシェールの二人の医師にみせた。この二人の医師は、この子どもを診断して、確かに狂犬で死ぬだろうと断定し、パストゥールにワクチン予防注射を勧めた。その瞬間は1885年7月6日の夜で、狂犬の発症予防の世界で最初の注射が行なわれたのである。幸いにしてこの子供ヨゼフは、発病しないで助かった。パストゥールの新発見は全ヨーロッパに伝えられ、パリ市ウリム街のパストゥール研究所を目指して西からも東からも、治療を乞う者が引きも切らずに訪れた。という有様が毎日続いた。

 ある日、ロシアのスモレンスクより19人の農夫が、パリに乗り込んで来た。彼らは19日前に狂犬の狼に咬まれ、そのうち5人は歩けぬほどの重傷を負っていた。彼らの知っているフランス語は、ただ、「パストゥール、パストゥール」という言葉のみであった。誰もが、彼らが救われるとは考えてもいなかった。パストゥールはすでに手後れなのを知り、ワクチンを朝と夕との2回注射をした。その結果19人の中3人が発病したのみで、その他の16名ははみな健康をとりもどし、元気に故郷へと帰って行った。

 ツザールはこれを聴いて、聖アンヌダイヤモンド十字架勲章をパストゥールに贈って感謝の意を表わし、その上10万フランの大金を研究所新築の費用にと寄贈した。世界各地より寄贈された金銭を合わせてパリ市デュト通にパストゥール研究所が出来た。これが現在のパストゥール研究所である。

 1895年パリの郊外のビルヌブ・レタンの別荘でパストゥールは永眠した。彼は、カソリック信者であったので左手に十字架を握り、右手は静かに夫人の手に載せ、ルー、シャンベン及び多数の門下生に取り囲まれて、静かにこの世を去ったのであった。この老偉人を取りまいた人々の眼には、身代わりとなれぬ悲しさを涙として表した。

 パストゥール70回の誕生祝いが1892年ソルボンヌ大学で催された。この日は、この偉人の人生中で、最も記念すべき日であった。世界各国の有名な学者は、ことごとく参列した。英国のリスターもその出席者の一人であった。多くの学生も集まっていた。大統領に伴なわれてパストゥールが式場に入った時の光景は、まさに凱旋将軍を迎えるような壮観さであった。近衛兵が、進軍の曲を演奏した。パストゥールは立って、短い演説を試みたが、70才の老翁の熱烈な音声は、ややもすれば絶えようとした。

 最後に、彼は学生の一団に向い、声を張り上げて言った、「わが青年よ、安逸であるなかれ。 非難功撃に会って失望するなかれ。研究室と図書室の静粛な平和に生きよ。そうして、君らまず自分に問え。自分は今までに何をしたか、祖国のために尽すことがあったかと。君は人類の進歩及び繁栄のために充分に尽し、無限の幸福を感じるまで励めよ」。彼の愛国的人道的叫びは永遠にフランス国の学術と文化に生き続けるであろう。

 

目次 ▲▲ ▼▼

4.ローベルト・コッホ

Robert Koch (1843-1910年)

(1)

 ローベルト・コッホは、ドイツ国ゲッチンゲン大学を1866年に卒業して医師となった。彼は、海軍軍医または船医になる希望を学生時代にはもっていた。しかし、大学卒業後、ハンブルグ市の精神病院に臨床医として奉職することになった。 この時、すでにパストゥールの名前と優秀さは全ヨーロッパにひびきわたり、「病気は微生物によっておこる」との新学説は、若きコッホの耳に絶えず強い刺激として入って来た。この新しい考えは青年医師の熱き血を湧き立たせた。コッホは、パストゥールが言う病気の原因となる微生物を自分でもとらえ病気との関係を明かにしたいと熱望するようになった。病原微生物学をもって、医学界の頂点にあるウイルヒョー一派の病理学に、新しい考えを導入し、古い体質への革命のノロシを揚げたいと夢みていた。

 ところがエンマフランツと結婚することになって、彼女の希望を受け入れて田舎で開業医として出発する運命となった。田舎での臨床医の仕事は、もちろんコッホを満足させることはできなかった。パストゥールの病原体原因説を耳にし、また スコットランドのリスター がパストゥールの病原説を臨床医学の実地に応用して外科的手術に着々と成功しつつあるとのニュースを聞き、コッホは心をおどらせる日々を送っていた。

 彼は診療時間でも暇をみつけては顕微鏡をのぞいて、微生物の研究を独学で楽しんでいた。このような医者であるから、思わしい収入もなかったのは誰にでも想像できよう。一日に10マルクの収入があった日などは、夫人はお喜こびしたと言われている。田舎を数か所転々として、ついにウォルスタインという村に落ちついた。第28回目の誕生日を迎えた時、夫人は顕微鏡を最愛の夫に誕生祝に贈った。夫人の心尽しが、コッホの研究心を満足させたことは想像するに足りる。

ある日コッホは、「 開業医はつまらぬ、臨床医学は無能に等しいではないか。ジィフテリアにかかって死に瀕した子どもを母親がつれて来ても、この病気の原因を知らぬ医師は、治療する方法に迷っているではないか 」と憤慨しながらヒトリゴトを言った。隣国フランスではパストゥールが不治の病である結核の原因は微生物によるに相違ないと宣言した。そこでコッホは、夫人の経済的不満には耳をかたむけず、猛烈に細菌の研究に没頭しはじめた。今を去る僅かに125年前の1873年のことであった。われわれは現代微生物学発展の歴史を顧みて隔世の感を感じ得ない。

 コッホより150年前にレーウェンフックが観察したように、夫人からの贈物の顕微鏡を使っていろいろな物について検査した。当時炭疽病はヨーロッパにおいては農家の大敵で、山羊・綿羊が炭疽病のために年間に数万頭も死亡した。そこでコッホは、炭疽病で死んだ動物の死体から血液を採り、標本を作製して顕微鏡で検べた。長い糸状のものが明らかに見えた。この物体は、ときには短くときには長く、成長するようにみえた。しかし、運動しないために、生き物と判断することができなかった。この糸状体はフランスのダバインやペイエーが発見し、生き物と考え、更に炭疽病の原因体と想像していた。しかし、生き物であるとの説明がなかったため、一人パストゥールがこれを信じたのみで、世界の人々はこれを全然認めなかったのである。

 この微小体が、生物であるということを証明する方法はないか、いかにこれを証明できるか、コッホは日夜苦心したのであった。コッホは、山羊や綿羊を買って実験する資金がない。またこれらの動物を買い得たとしても、飼うべき部屋もない。そこで彼は小さなマウスを買って、実験を試みたのであった。実験が出来ないと決して落胆してはいけない。窮すれば通ずるの理で、一度決心したらどこまでも突進すべきである。

 コッホは炭疽病にかかった山羊の血液を注射器に吸い取り、マウスに注射してみた。翌日このマウスは、病気らしい症状を呈した。そこでマウスの尾の先端を少し切って血液を採り、顕微鏡で観察したらそこに例の桿状体がいることを発見した。この実験でコッホは、この小さな桿状体は増殖するので生き物であると確信するに至った。しかし、それが生物であることをより具体的に証明するためには、マウスの体外でこれを証明する方法がないか? これがコッホの解決すべき重大問題であった。彼は夕食後、夫人に「オヤスミナサイ」と言い、2階の小さな研究室で一夜を明かしたことが何度もあった。このようにコッホが患者をあまりみないで、研究室に閉じこもることを夫人はうらんでいた。

コッホは、パストゥールの発酵スープを思い出てし、スープを培養液とし、これに死んだマウスの脾臓の小片を入れた。冬の寒い夜室内に放置しては温度が低いと考え、手製の保温器を造って、石油ランプでこれを温めるような工夫をした。しかし、努力したこの培養も雑菌の混入によって失敗に終った。そこで次ぎにコツホは、牛の眼の前房から水を採って懸滴法を考え、これに試験マウスの血液を混ぜてみた。彼の熱心な研究は、こうして炭疽菌の発育すること及び菌体内に抵抗力の強い芽胞が形成されることを発見したのである。

 このようしてパストゥールが想像したように、病気の原因は微生物であることがコッホによって証明されたのである。コッホは続いて、懸滴標本で炭疽菌は芽胞を形成し、この芽胞は再び細菌体に成育することを知った。ここに、初めて炭疽の家畜に伝染する経路が、ほぼ想像し得られるになった。

(2)

ドイツ国の片田舎ウォルシュタイン村の2階家、それもわずか20坪足らずの研究室で、なし遂げた大発見を学界に発表しようと、ウォルスタインの森を後にして旅立ちしたのは、1876年コッホが 34歳の時であった。血液の染色標本やマウスをたずさえてブレスロー大学に行き、老教授コーンを訪ねた。老コーン教授は常にコッホの研究を賞賛し、コッホも、また自分の研究の模様を常にコーン教授に報告していたのである。コーン教授は、青年学士コッホが教授連中を驚かす光景を胸に描きつつ、知名の学者を招待した。コッホの研究報告を皆で聴こうと待ち構えていた。

 コッホは、有名な学者・教授達の前では、何の講義をもせず、ただ携えて来たスライドガラスを拭き、血液の染色標本を作って顕微鏡で見せ、また同時にマウスの血液を別な健康なマウスのシッポに接種した。そのマウスが死ぬのを待って解剖し、また血液標本を見せ3日にわたってこのような実験を示した。 大学者達はみなア然として、コッホの手品のような実験を視るばかりであった。当時病理学の新進の教授であったコーンハイムは、コッホの実験をみて大変におどろいた。自分の研究室に走って行き、若い助手達に向って、「急いで コッホの実験を見よ」と叫んだ。助手達は「コッホとはなん人ですか、末だかってコッホの名を聞いた事がない。コッホなどいうの名前は大学教授の中にはおらぬ。」と質問した。コーンハイムは 「そんなことは無益な問答だ。はやく行って見よ、実に驚くべき一大発見である」 と叫んだ。助手達はあわただしく実験室へと走って行った。のちのエールリッヒも、その助手達の中にいたのである。

 パストゥールが「伝染病をこの世から人の力によって、消滅させることができよう。」と叫んだが、僅かその7年後にして、コッホの大発見が現われたのである。コーンとコーンハイムの両教授は、コッホの研究を完成させて、ドイツ帝国の名誉としようと尽力したのである。そのお陰でコッホは、家財をまとめてブロスロー市に移り、市の医者となり月75円の手当を貰えるようになった。しかし、コッホ診療所の玄関にはくもの巣が張り、患者の訪れることもなかった。それで止むなくまたフォルスタインの古巣に帰り、1878年から1880年の3年間再び狭い研究室に閉じこもって、顕微鏡をのぞいていた。

 コーンとコーンハイムの尽力により1880年にコッホは、ベルリン市の衛生局として技師に招聘され、2人の助手を得た。ここで初めてコッホは、自分の思うがままに研究することの自由を与えられたのである。

 ある日半煮のまま放置してあったジャガイモの割れ目に、あるものは赤く、あるものは白い小さな円形のものが発生しているるのをコッホは偶然に見つけた。不思議に思いつつ、試しに白金線をもって赤と白の円形を採り、スライドグラス上で標本を制作して顕微鏡で調べてた。それはおどろくなかれ正しく細菌の群れであった。その赤いものは円く、白いものは桿状であった。このジャガイモの表面に発生したものは、その一つが同一種の細菌、すなわち、その各々は純培養であるとコッホは感じた。肉汁のみを今までは用いたので、各種の細菌が混在していたが、今はジャガイモを用いれば細菌を純粋に培養することができた。コッホは直ちに助手であるレフレルとガフキーの二軍医を呼んで、この新大発見の成功像をみせた。

(3)

コッホは、慎重に研究を重ねその成績が確信しないうちは、自分の実験とその成績を他人にしゃべることはなかった。ある日コッホは当時医学界の皇帝と呼ばれていたルドル・ウイルヒョーを訪ね、「私は、細菌を純粋に培養することが出来るようになり得ました」と実験成果を話した。しかし、この老学者は若いコッホを鼻先きであしらい、まじめに話しを聞かなかった。コッホは大学者が相手にしてくれなかったことには、怒りもせず研究室に立ち帰り、結核の研究に今迄以上に熱中した。大学者に鼻先であしらわれたことが、彼を偉大な科学者にさせた出発点である。

結核は人から人へ伝染する。従って、微生物によって起こる病気だろうとの 想像は、当時の学者も懐いていた。フランスのビルマンは、ヒトの結核を動物に伝染させる方法を考えた。更にドイツ・ブレスローのコーンハイムは、結核患者の肺を取り出しその小片をウサギの眼前房にうえつけ、結核特有の病変が生じるのを眼の外から眺めた。コッホは、これらの考えや実験から、結核が病原菌によるとの発見のヒントが得られるものと考えた。

 結核で死んだ一労働者の死体から肺を手に入り一人研究室に閉じこもって、この検体を用いて研究に熱中した。それから数日の後、結核の肺をメチレン青染色溶液にひたして染色してみた。その結果はおどろくべきことに結核菌が青く染っているのを偶然に発見した。この日以来コッホの結核研究熱はますます高まり、その細菌の培養に猛進していった。彼は血清を加熱して固めた固形培地を考え出し、これを用いて結核菌を発育させることについに成功した。そして、結核の患者や死体より、また牛やモルモットから培養した結核菌の培養したものを43株をもっていたという。その熱心さには、実に驚くべきである。

 1883年3月24日は、細菌学勃興の記念すべき日であった。ベルリン大学で生理学会が開かれこの日、コッホは結核菌について発表した。医学界の大家ウイルヒョーを先頭に多くの学者が狭い会場に集まった。エールリッヒも会場にいた。コッホは、研究結果の口演と持説を終えて、討論を待ち受けた。一人の討論者も質問者も出て来なかった。聴衆の目は期せずして皆ウイルヒョーに注がれた。いつも難問を投げかけたり討論が好きな老翁ウイルヒョーは、このときばかりは一言も発せず一人会場より消えた。会場となった衛生学教室には記念の額が揚げられてある。

 コッホの大発見は、その日の夕方のうちにアメリカ・ニューヨークに達し、次いで全世界に衝動を与えた。その後世界の学者は、この大発見の話しを聞ことしてベルリン大学に大波のように押し寄せた。不治の病である結核の原因菌である結核菌を試験管内に封じ込めえたということは、まさに驚天動地の出来ごとであった。

      ローベルト・コッホが結核菌発見の演説をした室
      (現ベルリン大学衛生教室の図書館)
      左上に揚げた額には次の言葉句を刻まれている。
          Hier hielt
           Robert Koch
           seinen Vortrag
           "uber Tuberculose"
             die erste offentl.Mitteilung der
             Entdeckung des Tuberkelbacillus.
           Am 24.Marz 1882

(4)

1883年には、インドよりヨーロッパにコレラが侵入し、全ヨローッパを脅かしていた。ここに、パストゥールとコッホ、すなわちフランスとドイツとのはげしい競争を引き起こした。この二大科学者は、国家の名誉のために、コレラの病原菌を発見しようと争ったのである。しかし、この時パストゥールは、狂犬病の研究に多忙であったので、助手のルーとチュイリエールとをエジプトに派遣した。コッホは自らが現地に入り、ガフキーと共に寝食を忘れて、研究に従事したのである。研究のなかばにしてチュイリエール博士は不幸にもコレラに感染して倒れた。コッホとガフキーはこの訃報を聞き、すぐに現場のルー博士を訪問し、親しく弔辞を述べ、葬儀の手伝いをもしたという。敵味方共に今は礼を尽して犠牲者を弔ったのであった。やがてコッホは、ベルリンへの帰途に上った。その荷物の中には、新しい獲物コレラ菌が入っていた。コッホは 内務大臣に報告して言った。「私は一種のコンマ状の桿菌を、コレラ患者の糞便中から発見した。しかし、これを病原菌と断定し得るには至ってないから、更にインドに行ってこの研究を続行したい」と請うた。

コッホは再びベルリンを出発し、インド・カルカッタへと急いだ。ここでコッホは、コレラによる死者40体を検査して、全ての死体にコンマ状の桿菌を証明した。カルカッタでの研究でコレラの病原菌を発見した。コッホがこの大発見の成果を携えて故国ドイツに帰った時、ドイツ皇帝はKrone mit stern 勲章を与えてその功績を賞した。しかし、コッホは勲章を皇帝より授与された時、「私は、ただ可能なだけの努力をしただけで、医学の林に見落されていた黄金を偶然に探し当てたのみで、この発見の功績は真の幸運に過ぎない」と謙遜したという。学者の態度は、常にこうありたいものだ。

ミュンヘンの衛生学の老大家ペッテンコッファーは、コッホのコンマ菌原因説に猛烈に反対し、コッホよりそのコンマ菌の培養を取り寄せてこれを飲んでしまった。こんなコンマ細菌などで、コレラが発症するものではないとコッホを功撃した。ペッテンコッファーは、環境素因に重きを、コッホは単に病原菌のみを考えていた。ペッテンコッファー自身の無謀な試験は、死の瀬戸際よりちょっとばかりのところに、ぶらぶらと歩きまわっていたのだ。何となれば研究室において、誤ってコレラ菌を飲んで死んだ実験者が、その後少なからずあったからである。コッホの門下が伝染病の病原菌発見に力を注いでいる間に、コッホはツベルクリンを発見し、またその改良に苦心していた。専心一意、結核の治療の研究に従事していた。晩年、社交界より遠ざかり、第二夫人とともに アフリカのウガンダ地方の探険に行き、その予防および撲滅法を考え続けた。明治41年 (1908年) 日本に北里柴三郎を訪問し、王者の歓迎を受けた。その後間もなく1910年に心臓病にてこの世を去った。煙草中毒が、その原因をなしたといわれる。

 

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5.浅 川 範 彦

(慶応元年~明治40年・1865-1907年)

 

(1)

 浅川範彦は、慶応元年 (1865年) 高知藩の武士の家系に生まれた。高知県立医学校で医学を学び、卒業後地元開業した。明治27年29才にったとき、奮然と細菌学を専門に勉強したいと志を立て北里柴三郎博士の門をたたき弟子にして貰った。伝染病研究所創設にあたっては北里博士を助けて大いに努力し、その基礎造りを手伝った。明治34年 (1901年) 36才にして医学博士の学位を授与された。当時学閥に属さずにこの名誉を授けられたのは、異例なことであった。

 彼は明析な観察力をもって、他人の業績を批判し、熱心な勉強と周到な用意とをもって研究に従事した。その考察力が極めて優れていたので、当時日本の細菌学界において重要な立場にあった。明治29年 (1896年) に彼はツベルクリンをモデルとして丹毒菌の培養したものを用いて早く丹毒の治療を試み、浅川丹毒治療法と称した。またビダール反応が報告されるや、彼は直ちにこれを臨床上に広く応用される方法を考えた。チフス菌を食塩水に浮遊させ、これに0.5%ホルマリンを加えて腐敗を防ぎ、かつ、ホルマリンはチフス菌の被疑集性に何らの悪影響を与えないことを確認した後、いわゆる浅川診断液なるものを製造した (明治33年、1900年)。これにはビダールも、鼻をあかされたいへんに驚いた。何となれば、ヨーロッパではその後2・3年経ってやっと ホルマリン加菌液を実地に用い出したからである。

彼が理論的研究に卓越した考察力をもっていたことは、彼の破傷風毒素の研究からうかがい知ることができる。彼は、鶏が破傷風毒素に対して、天然免疫性をもっていることに大変に興味を感じ、その原理を明らかにしようと考えた。彼がこの研究にて、一歩一歩と実験を重ねつつ原理を追究してゆく正確な推理論方法は、学会にあっても彼の独壇場であった。ある人は、この研究を評して探偵的研究と言った。

当時、わが国における免疫学に関する知識では、彼は第一人者であった。彼は、研究室内においては極めて真剣に物事に対処したが、一歩世間に足を踏み出せば彼は円転滑脱世を達観し、その言語行動には明るく伸びやかな気風が現われていた。晩年、僧衣を着けて記念写真を撮り、これを知人友人に贈ったごときは、彼の人間性の半面を示すものである。彼は明治40年の早春にわかに42才の若さで世を去った。北里柴三郎博士が、彼の死を非常に惜しみ悲しんだ様子がうかがわれる (北里柴三郎の項参照) 。

(2)

 彼が研究において最も心血をそそいだのは、破傷風が産生する毒素の作用であった。当該毒素が神経中枢を侵すことを確めた後、ウサギ脳の硬膜下に毒素を注射し、脳に対する作用を検討した。その結果は、他の接種法で観察されるような普通の破傷風特有な症状を呈することなく、あたかもテンカン様のケイレン発作を反復して死ぬ。モルモットでは速かに全身症状を呈するので、そのテンカン発作を認めることが出来ないと記載した。彼は、ウサギにおいていわゆる脳破傷風を証明したのであった。

彼の研究は、破傷風病論において大成した。「破傷風とは破傷風菌が産生した毒素が血中に移行し、神経中枢を侵することによって発する毒素による中毒症である」と、破傷風発症原理を定義した。更に進んで、彼は当該毒素が神経を侵す作用原理を追究して、次の結論に達した。いわく、「破傷風毒素が神経中枢を好んで侵すのは、神経細胞中において、当該毒素と結合する一種の成分を保有することにある。別な表現をすれば、神経細胞内に存在するこの X 成分は、破傷風毒素 (T)と結合し更にを細胞内に牽引して (T+X)となる新結合物を造る。この化学物が形成されるために、神経細胞は生活上必要なX成分を失う。加えて、(T+X)となる異常成分が存在するために、神経細胞の生活状態が一変する。

これがすなわち疾病症状を発する原基にして、破傷風毒素中毒の真相である。そうして、破傷風病が神経以外の臓器に病的変化をひきおこさないのは、このX成分が存在しないことによる。私は、破傷風毒素と特異的な親和力をもつこのX成分を破傷風病の発病原基と考える。この考えは、ただ私の説くところのみならず、エールリッヒもまた同一想像を抱いて神経細胞中に破傷風毒素と結合する側鎖の存在を述べ、これをレセプターと名づけた。(細菌学雑誌明治30年)このように、浅川は実験によってエールッヒの側鎖説に有力な証明を与え、東西相呼応して、破傷風に関する免疫学説を建てた観がある。彼は更に進んで、次の説をつくった。「神経中枢に存在するX成分の脳及び脊髄における含有量を比較すると、脳は脊髄に比べはるかに大量に含有し、モルモットのごときはその脳中には脊髄より、およそ6倍も存在する。そうならば破傷風病は主としてその発病原基が豊かに存在する脳が侵害を蒙るべきなのにその侵害は少なく、主として脊髄の症状を呈する理由はどうしてなのだろうか。

私が想うに、脊髄細胞において1Xを消費した時は、脳細胞中にでは6X中のただ1Xを消失した時である。従って、脳においてはなお5Xが残存する。ゆえに、脳細胞の損害は僅微で脳の機能を失うことはない」。彼の考察は、精緻にして、且つ少しも反対する余地を残さなかったところに、学識の深さを視ることが出来る。そうして、発病原理と免疫学とにおける考察は、エーンルリッヒ先生の考えと同じで、明らかに認め得るところである。こうして、彼は、医学史に大きな足跡を遺した。

 

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6.アルモス・エドワード・ライト

Almorth Edward Wright (1861-1947年)

ライトは、1861年にアイルランドで生まれた。ライプツィヒ大学、ストラスブール大学、マールブルグ大学で勉学した。ケンブリッチ大学の助手を振り出しに、ついにはロンドン大学の教授となり、Sirの名誉称号を授けられた。彼は大きな体格の持ち主なのだが、大きな手と太い指とを器用に用いて、オプソニンの研究をしていた姿をフランクフルトのエールリッヒ研究所で見て、私は感心したことを記憶している。

 

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7.エリー・メチニコフ

Elie Metschnikoff (1845-1916年)

(1)

 エリー・メチニコフは、1845年5月16日南ロシアのカーコッフの近村オデッサに生まれた。20歳になったとき研究者になろうとの志を立てた。カーコッフ大学に入り自然科学を学び、4年間の必須課程を2年間で終了した。カーコッフ大学時代の彼は、教授より顕微鏡を借りて、一論文を書くという熱心さであった。学生としての彼は、無信仰者で "God-is-not" とあだ名されていた。卒業の時は首席で金牌を授与され、彼は鼻を高くした。その後、彼の名誉心はますます高潮し、多くの論文を書いて学術雑誌に投書した。しかし、世間がこの青年の存在を認めないのに憤慨し、「われ、もし、かたつむりならば、殻の内に隠れよう」とまでなげいたという。彼は海洋動物を研究しようと志したが、ロシアには指導のできる教授がいないため、ギーセン大学とゲッチンゲ大学に行った。しかし、学費に困りロシアに帰った。ついに自殺しようと決心した時、ダーウィンの「種の起源」を読み、奮然として立ち、自分は学術的な宗教を得た、と叫んだという。

 こうして、彼は再びロシアを飛び出して、ドイツやイタリアに行った。メチニコフは、コッホやリューベンフックのように沈思考究型の性格ではなく、夢を追って走り廻る型の人であった。そうして、彼は、「病毒に対する人体の抵抗」を説明しようとしたのである。 23歳の時ルドミラ フェオドローヴィチと結婚したが、彼女は肺結核をわずらいメチニコフの熱心な看護も効なく死去した。愛妻ルドミラの苦痛を去ろうとしてモルヒネを多用した。いつか彼自身も苦痛からのがれるためにモルヒネを試みた。彼は淋しく何度かモルヒネを飲んで自殺しようとした。けれども、致死量に達しなかったので幸いに命を保つことができた。彼は、「ああ、何のために、生き長らえようか」とため息をついした時、ガス灯の光に集って来る羽虫の果ない命を眺めて、適者存栄「Survival of the fittest」の原則を研究しようと決心した。その後、オデッサ大学の教授に任命され、ルドミラの死後2年にて15歳の少女オグラと結婚した。彼は初めて温い家庭を味わい、彼の性格も、また別人のように楽天的になったという。

1882年アレキサンダー2世暗殺後の反動政府に嫌気を感じ、オデッサ大学を退職した。1883年、パストゥールとコッホの細菌発見に関する噂を聞きながら、メチニコフは新夫人オグラと一緒にイタリアのシチリア島に行き、海洋動物の研究を続けた。海水を取って単細胞の原生動物を顕微鏡下にながめ、カルミンの細粉を原生動物が体内に摂取する様子を見て興味が一時に湧き出した。このような細胞は病原菌をも摂取するから、これぞ生体防御の本体であろう。今偶然にも私は病理学者となれり「I suddenly become a pathologist.」と叫んだ。有名な細菌の食菌作用の発見がこのとき出来上がった。彼は翌朝家を飛び出し、メッシナで会合していた有名な教授達に彼の発見を説明した。当時医学会の法王と称せられたウイルヒョー(病理学者)翁も彼の説を賞賛したので、メチニコフはこんどは一瞬にして細菌学者とった。彼はウイーンに行き動物学者クラウス教授に自分の学説を話し、このような摂取能のある細胞を何んと名づけるべきかと相談した。クラウス教授は字書を引いてギリシャ語を探し、「捕喰細胞」と命名した。ウィーンよりオデッサに帰り、オダッサ大学に於て「生体の防御能」と題した講演を試み、炎症論および免疫学に新しい道を開いた。

 ここにメチニコフの運命を開くべき大事件が起った。1886年ロシアの百姓が狂犬に咬まれたのでパリのパストゥール研究所に行き、パストゥールより予防接種を受けて救われた。オダッサの住民はこれを神に感謝し、オダッサ市にパストゥール研究所を設立し、メチニコフをその初代所長に任命した。この瞬間のみ人々は、メチニコフがユダヤ人であることを忘れたのである。彼は所長の職に就き、「私は学説家で、実地家でない。ワクチンの製造には、他に誰れかを選定されたい」と言い出した。そこで、ガマレア博士が実地を習得すべくパリに派遣されることになった。

 こうして、オデッサのパストゥール研究所において、炭疽病及び狂犬病ワクチンの製造をはじめたが、ガマレアを初めとする助手達は、技術が未熟なため成果は期待通りにはならなかった。そのため種々の非難が起った。さては、メチニコフの人身功撃にまで出て、「彼は医師にあらず、動物学者である。予防医学に就いて知るはずはない」と、バトウする者さえ出た。1888年ついに彼は研究の安全地をもとめパリに行き、パストゥールを訪問した。

 医学界の先覚者であるパストゥールは、メチニコフの説明を聴き、「私も食細胞と病原体との関係に興味をもつている。君は正しい」と言って、同情を表わした。パストゥールは、彼のために研究室を開放して優遇した。そのときに、オグラの父が死んで相当の財産を遺した。メチニコフは、オデッサに急ぎ帰り、家財を整理しその途中にベルリンでコッホを訪問した。しかし、コッホに冷遇されてパリに帰って来た。夫人オグラは絵を好んだが、今はその夫のために動物を捕え、あるいは試験管を洗って研究を助ける助手となった。

 ドイツとオーストリアの学者は、一斉に食菌説に反対した。バウムガルデンのごときは、毎年雑誌に 食細胞の功撃を書いた。ベーリングも、その急先鋒となって、ラットの血清は炭疽菌を殺すが、食菌作用とはなんら関係はないと論じた。輝きの日がついにきた。メチニコフは一大著書を発行して、食細胞について詳しく述べた。20年前には「生を罪」と考え幾度か自らその生命を断とうとした彼は、今はパリの郊外にいて近所の子どもより 「オジイちゃん、クリスマスおめでとう」と、声をかけられるのを楽しむようになった。

 思想の変化は、その環境よりくることが多い。メチニコフは友達に対して極めて親切で病気に罹る者があると、夫婦で肉親も及ばぬほどに世話をした。彼は"世話好きメチニコフ"とさえ呼ばれたほど人情味に厚かった。

(2)

 老衰を防ぐにはどうするか、老衰の原因は何か、これがメチニコフの注目した問題であった。老衰の原因は、動脈の硬化である。動脈硬化の原因は、アルコールでありまた梅毒である、とが彼の説明であった。この時、メチニコフは5,000フランの賞金を得、ルーは賞金 1,000,000フランを得た。その他にメチニコフはロシアの富豪より30,000フランを贈られた。そこでメチニコフは、ルーと相談して、これらの賞金全部を梅毒の原因と動脈硬化予防の研究とに提供することにした。ルーとメチニコフは梅毒患者より病毒をとり、それをチンパンジーに接種して梅毒を移すことに成功した。メチイコフはチンパンジーの耳に病毒を接種した後24時間経ってその耳を切断したら、チンパンジーは健全であったのをみて、彼は梅毒の病毒は一定時間その感染局部に存在するのを確めた。この時、メイソンヌーブという勇敢な学生が進んで自ら試験台を申し出たので、メチニコフは新鮮な病毒を採りこれをこの学生に接種した。対照としてチンパンジーにも接種した。学生には1時間経ってカロメル軟膏を塗擦した。この学生はその後何ら病症を呈さなかったが、対照のチンパンジーは梅毒の病症を呈した。

こうして、メチニコフはカロメル軟膏の塗擦は梅毒の予防に効果があることを、チンパンジーや人体を用いて立証した。この実験が公にされた時、一部の人々はこれは道徳的・人道的問題だとしてメチニコフを功撃した。メチニコフは梅毒の伝播を予防しようとする研究を功撃することこそ、道徳的問題ではないのかと反論した。

次に彼は、第二の問題の解決に向かった。動脈の硬化は、自家中毒による。腸内の細菌より産出する毒素は、自家中毒の原因である。人は大腸を切り取っても生活することができる。大腸はこのような細菌の宿るところである、という意見であった。これにも、たちまち反対論が起った。象のように巨大な大腸をもっている動物も長寿である。人類は大腸があっても、地球上で最長命を保った生物の一つであるという反論であった。メチニコフは、ブルガリアの住民には百歳以上の長寿者の多いことと、この土地ではブルガリア菌でヨーグルトを常用することを聞いたが、これこそ大腸内細菌の繁殖を防ぎ、自家中毒を防ぐ原因であると信じ、ヨーグルトを奨励し、会社をつくってこれを売り出した。彼自身も、またこのヨーグルトを毎日大量に飲用した。そうして、彼は、71歳で死んだ。ブルガリア菌によるヨーグルトは伝統的に今日各国でも、またわが国にでも広く販売されている。

メチニコフの名前について (編者記)

 不思議なことにメチニコフのローマ綴りによる名前は、本によって様々である。34頁の写真のメチニコフ自身のサインは、Elias MetschnikoffとありElieではない。しかし、多くの書籍およびノーベル賞受賞者一覧には、Elie Metschnikoff とあって Eliasではない。1884年に発表された "Daphnaの出芽菌病について・・・" のノーベル賞受賞論文 (独文)はElias Metschnikoff と明記されている (Milestones in Microbiology, T.Brock編、ASM刊、1975年)。1891年パストゥール研究所研究部長メチニコフの名によっておこなった「炎症論」の連続講演の原稿が1892年にフランス語で発行されているが、この本の"とびらには、Elie Metchnikoffと印刷されている。1920年メチニコフ夫人Olga Metchnikoffは、「Vie d'Elie Metchnikoff(メチニコフの生涯:宮下義信訳、岩波新書、昭和14年」という伝記を仏文で書いててるが、その文中で"……一家のうちで一番年下のイリヤ(エリー)は、……(同上、11頁)と記している。加藤勝治編、医学英和大辞典、南山堂、第10版によると、"Ilya Ilyich Metchnikoff"と記載されている。

 ユダヤ系ロシア人であるルチニコフは、ヨーロッパで大活躍をした。そこで彼自身が、独文ではIlyaをEliasにし、Metschnioffとsを入れて書き、仏文では Elie Metchnikoffと s を入れずに書いたのではなかろうか。とすると、どの綴りが正しく、どれが間違いという事はないように思われる。

 

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8.アロイ・ポレンダ

Aloys Pollender (1800-1879年)

 アロイ・ポレンダーは、ボン大学で医学を学び、卒業後ワイパーフェルズで開業した。独身で生活を守り、乗馬や読書、音楽を楽しむのが趣味であった。患者からは尊敬を受けて、治療をこうものが甚だ多かった。しかし、薬価の請求をも忘れる淡白な性格であった。したがって、彼の生活はあまり富有でなかった。彼は植物学にも造詣が深かった。しかし、彼の最も努力したのは、伝染病の研究であ った。1841年の秋彼は、背に大きな丘状のコブが出来ている患者を診察した。この患者から炭疽病に罹って死んだ小牛の皮を裸で背負ったためにコブが出来たと聞いた。また牛が炭疽病に罹り次から次へと伝染し死亡することの事実を視た。その時彼の頭には、殖える物体による免疫の考えがひらめいた。当時の学者は、このような疾病を天からのガス、悪気または悪魔によるものと、簡単に片付けていたのある。

 1849年、炭疽病で死んだ牛の死体を入手して、彼は病気の原因究明の研究を開始した。彼はウィーンのシモンプロシィー社製世界最高級の顕微鏡を買い入れ、それを使って牛の血液を検査した。その結果、病気の原因は血液の中に存在する小桿状態であるとの確信を得たのてだあった。

 1870年、コペンハーゲンの博物学者で医師であもるオットー フリードリッヒ ミューラーが名付けた「ビブリオ桿菌」というのは「運動する」という言葉から、運動性の細菌の意味である。その後、細菌学者は、運動の活発な細菌をビブリオと発音していたが、ビブリオに桿菌の名を付けたのはポランダーであるといわれている。

 更に彼は、この病原体の化学的な研究を行った。いわく、当該小桿状体は、酢酸・塩化水素・塩酸・硫酸・苛性カリでは殺されず、わずか硝酸で溶解される。また、ヨード液にて淡黄色に染まる。これらの化学的性状より、彼は当該小体が動物体ではなく、すなわち、蛋白質から出来ているものではなく、植物性のものであると言明した。今日の細菌の性状の概略を示したのである。

 1862年のある日、フランクミューラーが、ポランターの発見したものは生き物ではなく、おそらく、疾病の結果体内に生じた結晶体であろうと評した。(この説はウイルヒョー翁も賛成していたらしい)。ポランダーは、それ以前に、私の見た小体は結晶体ではなく殖える小桿状体であると明確に言明していた。彼の物事を見抜く鋭い眼には、敬服すべきである。

 ポランダーの発見とは無関係にフリードリッヒ ブロウエル (1856年) とオネムシデラホン (1856年) とカシミール ダーバイン (1863年) との3人も、炭疽病牛の脾臓や血液に桿状体を見ていた。しかし、彼等はそれが生き物であり、また病気の原因体であるとは考えてなく、その意義も明かにしなかった。したがって、炭疽菌発見の名誉はポランダーの専有になったのは当然のことである。そのために、今日の細菌学の基礎を開いたはポランダーで、その礎石のうえに壮大な建築をなしたのはローベルト・コッホであるとの評があるゆえんである。

 彼の家庭生活については、エピソードがある。 60歳の時老人にはめずらしく意気な姿で馬に乗って患者の家を廻ったものである。 70歳に近い時になって、美人で村内にうたわれた42歳の一女工と結婚した。しかし世間の噂を苦にして、ついに新郎新婦は手を取り携えてデュセルドルフ市に移り、1869年にはブリュッセルに移転して結婚式を挙げた。その後にまた郷都バルメン村に帰って来て、開業する運命となった。しかし、彼の高齢は最早医療活動を許さない状況で、窮乏のうちに彼は1879年79才で永眠した。彼の死後、その妻と一子とは、ブリュツセルの妹の家に寄食することになった。しかし、彼の研究の記念碑は1929年に、ワイパーフェルスの彼の住んでいた家に建てられ、「アロイ・ポランダー(1800~1879年)は1849年にこの家に於て炭疽菌を発見した」と刻まれて、彼の功績は永遠に 伝えられている。

 

 

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9.カシミール・ジョセフ・ダーバイン

Casimir Joseph Davaine (1812-1882年)

 カシミール・ダーバインは、フランスに生まれた (1812年)。初めパリで開業し、そのおだやかな態度と親切な真情とは、患者の信頼を得た。彼の研究はその余暇を盗み、または睡眠をもおしんで、人体、動物及び植物の寄生虫の研究に従事した。1850年、パリのライエル研究所において、炭疽で死んだ山羊の脾や、血液内に細長い小体を見た。初めはこれを原虫の類だろうと考えた。この発見は、ポレンダーの発見に後れること9ヵ月であった。ダーバインはこの小体を見て、試みに、脾・血液を採って兎ゃモルモットに接種した。彼の小さな研究室には、この実験動物を置くべき場所もなく、友達の家の床下を借りて飼養したのであった。彼は1863年に至り、初めてその研究を発表した。1866年至ってこの小体は、炭疽の病原体なのだろうと考え実験を進めた。すなわち、この小体の存在する血液を動物に接種すれば動物は死ぬが、この小体を証明することのできない血液では何らの症状も起さない。また、この小体をもっている血液を、例えば、百万倍に希釈しても、なおかつ、動物が感染するのをみれば、この小体の1箇ないし数箇が動物を殺し得るのである。これらの事実は、みな、彼の説を立証するものである。彼は、また人体の炭疽膿汁中にも該小体を証明した。その他、彼は生理学・寄生虫などに関する多数の研究及び発見があって、種々の賞碑及び賞金を受けられ、また、フランス皇帝の侍医を拝命した。彼は腹部の悪性腫瘍を病み1882年に歿した。

 

 

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10.北 里 柴 三 郎

(嘉永5年-昭和6年、1852-1931年)

(1)

 ペルーの黒船艦隊が開国を迫って来た嘉永5年(1852年)、熊本県阿蘇郡北里村に初声をあげた北里柴三郎は、やや長じて明治維新に遭遇した。青雲の志を禁ずることできないものがあったが、家庭の事情で、一時、志を屈していた。その後、熊本の医学所に入学 (明治4年)した彼は、オランダ人教師マンスフェンドに接して西洋文化の空気に觸れ、またその誘惑に従い、ついに医学を志すことになった。明治15年東京大学を32才で卒業して、直ちに内務省衛生局の公務員となった。明治18年ドイツ国への派遣の辞令に勇み立ち、翌明治19年1月ベルリンに着き、コッホの研究所に入って ローベルト・コッホに師事した (1885年)。 コッホの研究所にあって研鑚することすでに満3年、1887年明治21年コッホの細菌に関する研究は、隆々の勢いで世界視聴の的となっていた。この時、更に2か年の留学継続を許可された北里先生は、喜び勇んで破傷風の研究に突進した。

 これより先き、ゲッチンゲン大学のフリューグ教授は、助手のニコラエル医師とともに破傷風菌を研究した。しかし、破傷風菌の培養には成功せず、「破傷風菌は純培養が出来得るものでなく、他の細菌と共棲的に増進し得るものである。われらはこれを共生と称する」と報告した (1885年)。これを読んだ北里先生の眼は光った。純培養が破傷風菌に限って不可能という理由がどこにあるか、と一人心に叫んだのであった。こう考えた時、彼の勇猛心はただ突進するのみであった。ある日、研究所内で開催された抄読会の席上で北里は、自分の意見を語ると、同僚のフランゲ、ファイフェル、ベーリングなどは冷然とこれを迎えたが、コッホは北里先生の平素から何かをなしとげなければ止まない熱心さを知っていたので、直ちに、フリューゲの研究を追試しなさいと命じ、と同時にもし破傷風菌の純培養に成功すれば、正に細菌学における最高の勲章に値すると激励した。

 ベルリン陸軍衛戍病院より破傷風菌患者の膿汁を入手し、破傷風菌の培養を試みた。高層培地に穿刺培地を行なってみると、多くの細菌は好んで培地の上部近くに発育するのに反し、破傷風菌は下深部にのみ発育するのを見て、「シメタ」とテーブルをたたいた。この時、先生の脳底に閃いたのは、酸素を嫌うこと、すなわち、破傷風菌は嫌気性菌であろうということであった。そこで、高層培養をためしに80℃に加熱して、上層部の雑菌を死滅させその後続いて培養した。培地の表面には細菌の発育を認めないのに、深部にはミノムシ状の細菌集落ができているのを発見した。これより染色標本を作って調べると、特徴的な太鼓バチ状の細菌を認めた。そこで、この純培養をコッホに示すと、コッホは大いに喜び、「破傷風菌の純培養は北里によって成功された」と宣言した。これによって、北里の名は一時に世界の隅々にまで響き渡った。北里先生の研究は、もちろん、この破傷風菌の純培養をもって、動物実験を行ない、破傷風を発症させることに成功した。また、水素を培地に通し嫌気性菌の培養法に成功した。亀形コルベンと称する特徴的な形をした北里フラスコを造ったのは、この時である。

 キップの装置を使用して培地に水素を通す。そうして、充分に水素によって、空気を排除したと思うとき、排出管の先へ火を点火してみるのである。この時、空気の排出が不充分であると爆発する 。この失敗は破傷風菌培養を試みるとき、誰でも1度はある苦々しい経験である。北里先生もこの失敗をやった。北里フラスコの硝子片が、四方へ飛散した。隣席で顕微鏡を覗いていたドーニィツ博士(この人は東京帝国大学の教師として10余年も、日本で教鞭をとった人である)は、頭を押えて「 バカモノー、またヤリヤガッター」と怒鳴る。見ると、テカテカした頭から血が流れている。ドーニィツがビックリしたのももっともである。燐の部屋からコッホが来て、静かにこの騒ぎを眺めて、こんな失策があるだろうと注意を与えようと思っていたのだと苦笑する。 ドーニィツはヤッキとなって北里の不注意だと憤慨すると、コッホはすましたもので、「ソー、それは良かった」と言っただけで、北里先生に小言の一つも言わなかった。ドーニィツは不満でたまらないが、仕方なしに沈黙してしまった。コッホがいかに北里先生を、可愛がっていたかがこれによっても判かる。

 破傷風菌のブイヨン培養を細菌濾過器で処理して無菌液を作製し、これを動物に注射した。するとやはり破傷風の症状を呈した。この時、北里先生の頭は毒素という菌産生物に向った。そうして、麻薬であるコカインやモルヒネを連想した。コカインやモルヒネは増量的に用いれば、漸次これに慣れて中毒になる。先ず、破傷風毒素の致死量以下をマウスに注射し、一定日の後致死量またはそれ以上の量を注射した。しかし、そのマウスは何の症状を起こすことなく元気であった。

 さて、この慣れの性質、すなわち免疫の原因はどこにあるのだろうか。先ず第一に試験されたのは、血清であった。免疫にした動物の血清と毒素とを混ぜてマウスに注射すると、これもまた症状を起こさない。さて、これこそ、毒素を無毒にする物は、血清中に存在することを示すのである。 この独創的な困難な試験を完成して、コッホに示した時、コッホの喜びはいかに大きかったか想像に余りある。また、先生の喜びと満足とは、その絶頂に達したというべきであろう。これが、抗毒素即ち免疫体の発見の紀元である。

 コッホは、北里先生の研究の方法とその成績とを静かに聴取した後、北里先生に破傷風血清の治療への応用研究に進むべきことを勧めた。また、一方ディフテリア菌の研究を担当していたベーリングを呼んで、北里の方法に従って、免疫及び抗毒素の試験を行なうべきことを命じた。そうして、その成績は「ディフテリア及び破傷風の血清療法に就いて」と題して、ドイツ医学週報に発表された。これが正に破傷風菌純培養に成功した翌年の1891年である。 血清療法は、このようにして生まれたのである。

(2)

 1890年 (明治23年8月) ベルリンで開かれた第10回万国医学会において、ローベル・コッホは、初めてツベルクリンを発表した。しかし、コッホは単に結核の治療剤としての希望を述べたのみで、また、ツベルクリンの名称も付けなかったが、この報告が全世界に大きな衝動を与えたのは、私 (志賀先生)どもの記憶に今なお新たなところである。北里先生は、コッホの忠実なかつ信頼の厚い助手として、ツベルクリンの動物実験に参加した。

 北里先生のドイツ留学は 3か年より5か年に延長されたけれども、この期間もついに明治23年 (1890年)で尽きた。そうして、この時、コッホのツベルクリンの発表があったのである。当該研究が学界の重題問題であり、またわが国にとっても非常に重要であった。このことが、賢くも明治天皇の耳に達して、格別のお思召により恩賜を拝受した。更に1か年ドイツに滞在し、引き続き肺結核治療法の研究に従事することとなった。実に学界における空前の名誉である。この名誉を拝受した北里先生は、一生を結核治療に捧げようと決心したのはもとより当然である。

 ドイツにおける7度目のクリスマを名残として、先生は帰国の途に就いた。ドイツ政府は特に先生に対して、プロフェサーの称号を授与して学術上における貢献を表彰した。外国人としてこの称号を受けたのは、前後いまだかってない。

 一代の名誉を担って帰国した先生は、福沢翁の助力によって、芝公園内に私立研究所を設けた。これが翌年私立衛生会の所管に移り、更に転じて、官立伝染病研究所となった。大正3年11月内務省より文部省に移管された時、私立北里研究所を設立し、また慶応医科大学を創立してその学部長となり、昭和6年6月に死去された。

 伝染病研究所の創立とともに、直ちにディフテリアの免疫血清を製造し、これを治療に試み大成功を収めた。ドイツと相並んで、わが国で血清療法を開始したのは、先生の功績の一つである。他の文明国に率先してディフテリア療法を開始したのは、今日わが国医学の隆々たる根源をなしたものといってはばからない。その他、破傷風血清の治療を創め、また恙虫病原・癩菌・ペスト菌の研究に従事された。

 先生は外に向かっては、わが国衛生事業の進歩に努力し、また医学会のために手腕を振われた。研究室における先生は、沈思考慮の後研究の大方針を定め、そうして一旦定めた方針も曲げずに目標に向かって猛進し、その成功をみなければ研究を中止しない奮闘家であった。またその作業に従事されると極めて綿密に、極めて正確に、一歩一歩と進むのであった。こ れは、みなコッホより学んだところであると思われる。助手に対しても、またこの方針をもって臨んだ。もし助手の作業に欠陥のあるときは、少しも手心を加えず、大声叱責せられるのであった。この叱声に縮み上がるものは伸びることができない者で、自ら反省するものは前進する者であると常に話されていた。このことを今も記憶している。

 

 

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11.エミール・アドルフ・ベーリングと 12.エミール・ルー

Emil Adolf von Behring(1854~1917年) Emile Roux(1853~1933年)

(1)

 ベーリングは、ドイツの古都ハンスドルフに生まれた。経済的事情からベルリンのの陸軍医科専門学校を卒業後、数年軍務についた。彼は詩人としての才能に富み、美辞麗句を大いにに愛好する人であった。 軍医として勤務していた期間に、ヨードホルムに殺菌作用のあることを発見した。ベーリングの才能を陸軍医務局は認め、薬理学者ピングの下で勉強させた後、本人の希望でコッホの助手として働くようになった。

(2)

 フレドリック・レフレルは、ディフテリアの子どもの咽頭を検査して,一種の細菌を発見した。ついで,1884年にディフテリア菌の純培養に成功した。 ディフテリア菌をモルモットに接種したら,2-3日で死んだ。モルモットの接種部を検査すると他の細菌と異なり、接種部に少数の菌が発見されるのみであった。また他の内臓にはディフテリア菌を見出すことができなかった。これは、興味のある新しい現象の発見であった。しかし、レフレルは、この新問題に遭遇していながら,これをベーリングやルーに まかせ泰然としていた。彼の軍人気質をみることができる。1888年の初めのことである。

 パストゥール研究所のエミール・ルーは、レフレルの実験報告を読み、ディフテリア菌は毒素を産出してモルモットを死なすのであろうと想像した。ここで,ルーは、同じパストゥール研究所のシャンベランの発明した細菌濾過器を用いディフテリア菌のブイヨン培養を濾過し、その濾汁をモルモットに注射して強力な毒素の存在を証明した。この時,コッホ研究所において、ベーリングはディフテリア菌の毒素を無毒化する坑毒素を発見した。ルーもまた毒素をもって馬を免疫して、強力な抗毒素を作り、これをディフテリア患者の治療を試みその抗毒素の効果を確認した。ルーはその成績をブタペストでの学会において報告した。当時ディフテリア患者は60%が死亡したが,抗毒素を用いた血清治療によって10~16%にまで患者の死亡率を減少させることができた。

(3)

 コッホ研究所は、ベルリン市のシューマン街の角の「三角」と呼ばれた所にあった。コッホは、片田舎のウオルスタレインの町医者ではなくてプロフェッサーとなり,数名の助手を指導して細菌の研究に脇目も振らずに没頭していた。「zum Vaterland父なる国へ」の歌う燃えるような愛国的精神をもって研究室る篭る面々には、フランスのエミール・ルーとその名も同じだったエミール・ベーリングを初めガフキーあり、レフレルあり,エーリッヒあり、日本よりは血気盛んな青年北里もこれに参加して,鋭意研究に従事した。パストゥールが、フランスの国威を輝かしたのはわれわれの目標だ、ドイツの実力と名誉を高めるのは、我々の任務だと全員一丸となって研究に励んだ。

 この時ベーリングは,30代の軍医であった。彼は,二つの学問上の信条を持っていた。1) 血液は生体を循環する最も不可思議なものである。2) 病原菌を人体及び動物体内にて撲減し得る化学的物質が存在するはずである。この第2の信条から彼はディフリアの治療を試みた。ディフテリア菌を接種したモルモットに、金化合物,ナフチールアミンなど多くの試薬を注射した。しかし,ディフテリアは治らないで,動物は薬物のために早く死んだ。ベーリングは、最後に三塩化ヨードを試みた。これは試験管内での殺菌力が極めて強いので、必ず動物体内においても同様にディフテリア菌に対して殺菌カがあるだろと信じたが,これもまた失敗に終わった。

 パストゥール研究所のルーの報告を読んで,ディフテリア菌の培養液の濾汁は毒素を含有するのを知ったベーリングは、三塩化ヨードの試験で死を免れたモルモットにこの毒素を注射してみた。所が何の症状も呈さないで全て生存することを発見した。すなわちこのモルモットはディフテリア菌に免疫を得たと考えた。さらにベーリングの考えは、この免疫動物の血液に目標を向けた。免疫動物の血液を採取し、その血清にディフテリア菌の産生した毒素を混合し、モルモットに注射してみた。動物は死を免かれるのをみてベーリングは、跳るばかりに喜んだ。この血清には、抗毒を無毒化する抗毒素と名付くべきものが存在するのである。こうしてベーリングは多数の試験を反覆した後これをコッホに示した。

 1892年この免疫血清は、初めてベルグマン医師の診療所にてディフテリアの子供の治療に試みられ、その偉大な効果に全ての者が驚かされ、アメリカより派遣された衛生技師ビッグスはニューヨークのパークに電報で、「ディフテリア治療用抗毒素の製造に成功」と伝えた。これはまさに全世界に鳴り響こうとする第一声であった。

 ベーリングは、血清やワクチン製造に関する研究のために、ベーリング会社を設立した。血清とワクチンの販売から経済的に豊になった。広大な構地に多数の実験動物が飼育されていた。1896年42才の時、18才の娘エルス・スピノラと結婚した。1901年には「ジフテリア治療血清の創始」の功績により第一回ノーベル賞を受賞した。7人の子供の父として研究に専念したが、1917年3月で永眠した。

 

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13.ゲルハルト・ヘンリック・アーマー・ハンセン

Gerhard Henrik Armauer Hansen (1841~1912年)

  1841年にノールウェーのベンゲルに生まれたアーマー・ハンセンは、若い時から研究に興味をもち、大学生の時すでに淋巴腺の病理解剖に関する論文を書いて、大学賞を受賞した。その後、病理解剖学を専攻してライ病の研究に没頭した。

  当時ダニエルモンとベウェックの学説 (1847年)が主流で、一般にライ病はは遣伝病だと信じられていた。ハンセンは、ライ病で死亡した遺体を解剖して、非常に特種な疾病であることに注目し、ライ病は伝染病だろうとの信念を懐くにようになった。ライ病の研究に興味をもった彼は、ヨーロッパ各地を旅行してライ病の発生状況を調査し,ますます伝染病説が確かであることを確信するようになった。すなわち、1) ライ病の発生は家族との関係よりは、その地域関係が明瞭であること。 2) ライ病がある場所に移入されると、その患者を中心にして伝染的に患者が多発すること。 3) ライ病患者の子でも がアメリカに移住した場合は、その子どもは健全に成長すること。4) 病院に多年勤めた者でものライ病に感染した 2例は、その家系にライ病の者を発見できなかったこと等によって、彼はライ病の伝染病説を確信し、その調査結果を 1874年にノールウエィの医学界に報告した、しかし残念なことにノールウェイ語で書いたため、世界の注意をひかなかった。そこで彼はこれを不満として、当時の極めて粗末な顕微鏡を用いて、ついにライ病患者の組織細胞内にライ病菌を発見した。

  1872年当時彼は、オスミウス酸を用いある種ライ菌を染色し得たが、後にコッホが結核菌の染色に成功したので、その方法を応用して明瞭にライ菌を染色し得たのである。ハンセンは、一生を実にライ病撲滅のために捧げたのであった。祖国のため、また同胞のために、ライ病の撲滅を計画した。

  1877年、ノールウェーにてライ患者の隔離法及び消毒法が実施され、1885年にはさらに法律を改正して、厳重に患者を取り締ることとなった。これらすべてハンセンの発案によってできたものである。

  こうして、1856年ノールウェー全国に 2833人のライ患者がいたが、1929年には僅かに 90人に減少した。このライ病取締法は、ヨーロッパ諸国もこれにならって施行した。特にベルリン (1897年)、ベールゲン (1909年)及びストラスブール (1923年)で開催された万国ライ病会議において、3回ともハンセンの方針の正しさを確認しハンセンを賞賛したのであった。

  60歳の還暦のお祝いに彼の友人及び各国の賛同者より贈られた胸像が、ベールゲンの博物館の庭園に建てられて,彼の功績は永遠に伝えられている。1912年2月12日このライ菌発見者は、71歳にして静かにこの世を去った。

 

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14.アンヂル・セリ

Angel Celli (1857-1914年)

  赤痢菌を研究していた時代に著者(志賀潔)は、セリの名を知り、文献上にて親しみのある友であった。アンヂル・セリは1857年イタリアのマルケンに生まれ、大学卒業の後、ミュンヘンに留学し衛生学のペッテンコッファーに師事した。故国に帰って後,1887年口-マ大学の衛生学の教授となった。

彼は、フィオカとともに1895年に赤痢患者の糞便より-種の桿菌を発見して,これに Bacillus coli dysentericum と名付けた。その当時の細菌学は、赤痢菌から分離したこの菌を大腸菌と明瞭に識別することができなかった。そのため大腸菌の一種、または変種と考えたのであろうが、実際赤痢菌を世界で最初に培養したのかも知れない。

志賀潔が赤痢菌の純粋培養に成功し、その結果を日本細菌学雑誌に発表した後、セリもまたドイツの細菌学雑誌に彼の業績を発表し、赤痢菌の最初の発見者としてのプライオリテーを争ったことがあった。しかし、その後彼は赤痢菌発見としてはわれ関せずの態度をとっていた。

 その時北里柴三郎先生に手紙を送って来た。彼の手紙には,次のように書いてある。


 拝啓 北里柴三郎先生               ローマにて, 1889年2月16日

  先生の門弟である志賀氏の赤痢の病因論に関する論文大変興味深く拝見いたしまた。私もまた同様に,最近 (1896年) 赤痢菌の毒性物質と免疫に関する研究を数多く行なって来ており,赤痢患者に血清療法が使えるかを検討しております。更に赤痢の血清学的診断をも行なってみようと思っでおります。

-般に赤痢菌の診断的基準を確認にすることにより、志賀氏のBacillus dysenteriaeと私の分離したBacillus coli dysentericum は同-のもであると確信をいだいております。なるベく早い時期にこの考えを細菌学会誌 ( Centr.fur Bakteriologie ) に発表したいと考えております。

 B. dysenteriaeと B. coli dysentericum の同一性をさらに明確にするため、先生方の培養された菌を私に送って下さることをお願い申し上げます。私はそのお返しに、私の培養菌を喜びをもって先生にお送りしたいと思っています。

                   
敬具
貴方の下僕  A. Celli

しかし,生涯で彼の最も努力したのはマラリアの研究であった。1880年にラベランがアルジェリアのコンスタンティン市でマラリアの病原体であるマラリア原虫を発見したのに刺激されて、1883年セリは、助手マルチアファブとともにマラリア患者の赤血球内に発見されるマラリア色素は赤血球内のヘモグロビンより形成されることを証明した。ついで、イタリア地方に秋期に発生する悪性マラリアが M. quqtana und tertianaと異なるのを明かにしたのは、彼の功績であった。

 衛生学者セリは、マラリアの研究の次に眼を転じて祖国イタリアの衛生状態を眺めた。そうして,彼はその同胞2万人余の生命がマラリアによって毎年失われるのをみて、彼は大きな決断を計画した。それは学者から政治家に転職し、政治を介してマラリア予防を考えたのであった。彼はまず共和党に入り,1892年には代議士に当選した。マラリア撲減問題を社会にアッピールし、ついに法律を制定してマラリアの特薬であるキニンを国家管理とし、また大地主・会社・組合にマラリア予防のためにの、キニンを国民に無償給与させる義務を負わせた。イタリアのマラリア流行は、この政策によって年々著しく減少を示すに至った。

 心臓病に悩んだ彼は,1914年1月,夫人の篤い看護の手に抱かれつつ57歳にて世を逝った。

 

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15.ウォルター・クルーズ

Walther Kruse (1864-1943年)

  ウォルター・クルーズは、フライブルグ大学及びベルリン大学で、博物学と医学を専攻した。その後大学理学者ウィルヒョーに就いて病理学を学んだ。一時グロスベーレンで開業したこともあったが、1889年コッホ研究所にて6か月間細菌学の研修を受けた。1892年には弟子のパスクレアとともにエジプトに行きアメーバ赤痢を研究したのが、クルーズが赤痢に興味をもった初めであった。

 ブレスローに行ってフリュッグの助手となり,1898年にはボン大学の細菌学の教授となった。1900年の赤痢大流行の時,彼は赤痢患者の糞便を検査したが、アメーバを発見出来なかった、そこで次に細菌の培養を試み、赤痢患者の糞便中に赤痢菌を証明した。この記述がドイツでは赤痢菌のことを志賀ークルーズ菌と称するに至った原因である。後に彼は細菌化学の著書を出版し、1913年にはライプツィヒ大学の衛生学教授となった。著者(志賀潔)は明治34年 (1901年) 7月初めてベルリンに行った折、9月にハンブルグおける医学栄養学国際会議に出席した。その時細菌学の部で赤痢菌発見に開する簡単な報告をした。たまたまその会場にクルーズがおり,私が突然と会場に現われたのに驚いた様子であった。私の口頭演説が終わった後,私はクルーズに挨拶した。ところが彼はいきなり私に培養した赤痢菌を持って来られたかと問うのであった。私は日本からドイツまでの50日間の航海において、私の赤痢菌を1度継代培養を試みたけれども,結果は発育しなかったので、今日は持って来られなかったのは残念だったとクレーズに告げた。彼は甚だ不満な様子であった。彼の大きな身体とその特異な顔貌と唐突な挙動とは私の眼にとても怖ろしく映った。ドイツに来て間もない私には無理もなかったことと,今でも思っている。彼は昭和9年 (1934年) 10月,大学教授の職を退ぃた。

 

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16.マック・ペテンコッファー

Max Pettenkofer (1818-1901年)

  マック・ペテンコッファーは、ミュンヘン大学、ビュルツブルグ大学、ギーモレー大学で、化学及び医学を学びんだ。1883年に、ミュンヘン大学の正教授になった。後に衛生学研究所を建設して、その所長となり、1901年に永眠するまでここで研究していた。彼は今日の衛生学の基礎を作り、化学的及び理学的方面より衛生学の研究を行ない、殊に室内の換気法に関する有益な業績を残した。ミュンヘン市の水道は彼の設計したところで,その水質の良質なのは,水道敷設の模範とされている。その他、伝染病・コッホが細菌学を創設して、伝染病の細菌病原説を唱えると、ペッテンッファーは心に甚だ穏かでないものがあった。彼の主張する地下水説 は、統計学的調査に立脚するもので,伝染病の流行は士地及び時の素因によるものと考えたのである。コッホがコレラ菌を発見しても、ペッテンコッファーはコレラの発生はコレラ菌のみでは起こるものでないと主張した。ペッテンコッファーはコレラ菌を X となし,この X はコレラ発生の唯一の原因ではない。地中にある Y という素因と合して XY となって,初めてコレラが発生するものであるという主張である。インドの四元、中国の五行説を,読むような感じがする。

彼は自分の学説を立証しようとして,コッホが発見したコレラ菌を入手して門弟エィリッヒとともにコレラ菌を飲んだ。1892年その夜彼は烈しい下痢をおこした。しかし、幸いに中毒症状まで起こすに至らずに治ったけれども、エィリッヒは翌晩劇烈なコレラ症状を発し、コレラ特有の米のとぎじる水様便の下痢をし,脱水状態から衰弱・尿閉などを発し,数日の治療によりようやく死を免れた。これの件は後々まで有名な話となって,世に伝えられている。自分の学術説に忠実なのとガンコとを,取り違えてはならない。

 

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17.野 口 英 世

(明治9年-昭和4年,1876-1929年)

(1)

 野口英世は、明治9年(1876年),福島県猪苗代湖畔磐梯山地方の農家に生まれた。清作とは,彼の幼名である。2年で中学を退学した少年清作は,その時すでに英語・仏語・独語の文を読み,郷里の人々を驚かしたほどの語学の天オであった。彼の伝染病研究所時代には,更におどろくべきことにイタリア話・スペイン語の文も読めた。著者(志賀潔)がある日、イタリアのセリの赤痢菌に関するイタリア語の論文を野口英世に示したところ、1週間程でこれを日本語に訳してくれたことを記憶している。今から思うに、野口はこの時初めてイタリア語の文を読んだのだと思う。後日デンマークのコペンハーゲンに留学した時,1年たらずしてオランダ語とデンマーク語を話し,かつ書き得たという。また,黄熱研究のために南アメリカに行ったとき、土地の医師や役人とスペイン語で話したというので、さすがの野口の先生である国際人フレキシナーも彼の語学の才能には驚いていた(フレキシナーの書いた野口英世伝に出ている)。

 野口は、研究も勉強も実に全力を尽したのであった。彼は研究室にいて疲労を覚えると、椅子より降りて板の間にゴロリと横になり、1~2時間の後眠りより覚めると直ぐに研究するというふうであった。彼の夫人の話に、野口はタ食後 1~2時間は長椅子の上で眠り,目がさめると直ぐ机に向い、夜半まで勉強していたという。

 フレキシナーは,更に書き続けている。ある日の早朝のこと、野口は私を自宅に訪ねて来た。こんな早くから何ごとかといぶかりながら早速遇ってみると,野口は昨日は徹夜で研究室で研究をして、200余枚の脳の組織標本を検査した。前日のタ刻に一枚の標本中にスピロヘータらしきものを発見したので、次から次へと標本を検査していった。やっと200枚の標本から7枚にスピロヘータの存在を認めた。しかし,考えてみると今日まで多くの病理学大家が研究してもいまだ証明されないこのスピロヘータの発見に少々不安の念があったため,早朝だけれどもフレギシナー先生に相談に来たのであった。野口にまず朝食を勧めた後に,二人が打ち連れて研究室に行き,彼の示す標本を顕微鏡でのぞいてみた。そしてスピロヘータに相違ないことを認めた。これが不全麻痺の病理を決定した当時の思い出を書いたフレキシナーの野口伝のー節である。野口は、研究に真剣であった態度が躍如として表れているである。

(2)

 野口清作は、幼少の時あやまって火の燃え上がる炉に倒れて左手をヤケドした。後に医師渡辺鼎氏の手術を受けて,僅かに2指を使い得るようになったという。彼はこの不自由な手をもって、何ごとも巧みにやってのけた。20歳の時,上京して済生学舎に学び,僅か2か年で医術開業試験の前期と後期に合格した。

 北里柴三郎先生の伝染病研究所に1898年入って細箇学を学んだ。1899年の春たまたまアメリカの細菌学者フレキシナーがフィリッピンのマニラに行く途中東京に立ち寄った。この時彼は,初めてフレギンナーを知ったのである。野口は、僅かの旅費を調達して3等の乗船券を買って太平洋を越え,1899年の12月24日フィラデルフィアに着き、早速ペンシルバニア大学にフレキシナーを訪問した。フレキシーはこの不意の野口の訪問に驚き、彼の生活費について心配し事務当局と折衡したが,その当時のアメリカの大学には外国人に対して支出すべき経費はなかった。そこで、フレギンナーは実力をもってするより外に途なしと教え、野口に研究課題を与えた。

 こうして,彼は翌正月元旦より小さい一室を与えられ,蛇毒の研究を行なうことになった。彼は数カ月の後,蛇毒の免疫に関する研究を仕遂げて,ミッチル博士の信用を得て,米国科学アカデミーとカーネギー研究所より手当と研究費の補助とを受けた。彼は月25ドルの生活費に満足して,朝から晩まで愉快に研究室で暮し、さらに貧乏生活を意に介するところがなかった。

 フレシナーは、野口の優れた能力として、1) 明敏な頭脳 、2)巧みな技能 、3)驚くべき勤勉の3点を挙げるげている。彼は先輩より多大の信用を受け,同僚よりは尊敬された。異国にあって,よく彼の地位を占め,あの大成功を遂げ得たのは,彼の努力と勤勉の賜であった。

 1904年にロックフェラー医学研究所がニューヨークに建設された。彼はこの時を利用して,デンマークのコペンハーゲンに留学した。彼は、マドセンとアレニウスの化学的免疫学説に対して理解をもっていた。一面彼の蛇毒に関する研究は,側鎖説によるものとして,ドイツのエーリッヒの賞揚を得たのであった。

 そのような状況であるのに,デンマークのコペンハーゲンに行ったことが,多少の誤解を招いたのではなかろうか。これが次のエピソードを作ったのであると、フレキンナーは言っている。それは、ある日ベルリンのエミール・フレッシャーの研究室におけるできごとで、フレキシナーがこの研究室に滞在研究中のことであった。エーリッヒがこの研究室を訪ねて来て、例のように研究室の誰彼となくを相手に熱心に側鎖説を説明し、彼得意の最高潮に達した。助手連は何れもみな仕事を止めて、熱心にこれを傾聴していた。エールッヒは、作業机の側を愉快そうにあちらこちらと例の足拍子をとって歩いているとの騒ぎに何ごとかといぶかり、フレキシナーは自分の研究室から出て来た。エールッヒとフレキシナーの親友は温い握手をなし笑いながらエールッヒは「二人は親友であった。なぜお前はおれを追い出さんのか」(エールッヒはフレキシナーが野口をコペンハーゲンに追い出したと思っていた)と言うと、フレキシナーは静かに「ここではわれわれは全く自由さ」と答えたのであった。この場面を見て、そしてまたドイツのこの両学者の無邪気な問答を聴いたフレキシナーは,非常に感激したのであった。

(3)

 野口は、免疫学説についてはエールリッヒの説に従っていたが,彼は学説を論ずるよりは、寧ろ実際家であった。彼はコペンハーゲンより帰ってロックフェラー研究所に来て,梅毒の診断法の一つであるワッセルマン反応を研究したが,野口は梅毒の病原体であるスペロヘータ・パリダの培養をもって,梅毒試験の抗原としようと努カしたのであった。

 セオバルト スミスの培養方法に従って、野口は培地に新鮮な兎の腎臓1片を入れて試みた。ところがスペロヘータ・パリダにその他のスペロヘータを混ぜるために,その純粋培養は極めて困難であった。しかし、彼はこの困難に打ち勝って,ついにスペロヘータ・パリダの純培養に成功した。またこの培養より結核のツベルクリンにならってワクチンを製造して、梅毒の診断に応用しようとした。その後この職器を用いる嫌気性培養法は,細菌学に新生面を開くように大発展した。

 彼の後の10年間は,原因不明な伝染病の研究に没頭した。その種類は、黄疸トラコーマ、ロッキー山紅斑熱、ポリオ、狂犬病、カラアザール、オロヤ熱、ペルーイボなどである。

 1918年に彼は黄熱の研究のため,ロックヘェラー研究所よりエクアドルに出張した。これは,南米出張4回 (1918-1924年)中の最初であった。これに先んじて,彼は大正4年 (1915年) に日本に帰って来た折、稲田博士の熱性黄疸の研究を見学して米国に帰り,北米の地にも不明熱としての熱性黄疸の存在を確めた。

 そうして,この微生体にスペロヘータ属と異なる点を確めて,新しくレプトスピラという新しい学名を設けた。次に彼の慧眼は,黄熱に注がれた。彼の前後4回にわたる南米の遠征において,彼は黄熱患者の血液 (27例中6例) にレプトスピラを発見した。しかし,ここで彼の研究心を奮起させたのは、アドリア・ストークスの研究で,それによるとアフリカの黄熱にはレプトスピラを証明し得ない、その病毒は濾過性のものだという。こうして、問題は未解決の状態にある。レプトスピラは果たして黄熱の原因なのか、あるいは濾過性病原体(現在はこれをウイルスと呼ぶ)はレプトスピラの一定発育期にあるものなのか、またはレプトスピラは混合感染であるのか。これは後の研究として残された。

1925年のある日、バチスティニーがオロヤ熱患者の血液標本を携えて、ロックフェラー研究所に野口を訪ねて来た。野口はこの標本をすぐに顕微鏡を用いて検査し、バートンが 1905年に発見した赤血球内に寄生する小球体の存在を証明して、直ちにオロヤ熱の研究に着手した。ペルーイボと名付けるられている疾病に発するイボを取って猿に接種すれば、オロヤ熱になることはすでに証明されており、1885年ペルーの医学生カリオンがこれを自分の身体に接種し、オロヤ熱になった実験から、ペルーイボまたカリオン氏病とも呼ばれているのである。

 さて,野口はオロヤ熱患者材料より赤血球内の小体を培養し、その培養が動物実験によりオロヤ熱の病原体であることを証明し、更にまたオロヤ熱とペルーイボが同一原因によることを確定した。さてこの疾病の伝染についてタウンゼントはペルーにおいて調査した結果、昆虫の刺した毒によって伝染するものだろうとの考えを提案していた。野口は、アフリカへ出発の直前だったため、ロックフェラー研究所より弟子のシャノンを南米に派遣して、昆虫の調査をさせた。その結果は野口の考えのように、スナバエ属のPhlebotomus Verru-carum と Ph. noguchi の両ハエが病気の媒介者であることを確定したのである。

 野口英世のトラコーマ研究は、2期にわたる。第1期は 1910から1913年までニューヨークにおいての研究であるが、何の結果を得られなかった。次に1926年はニューメキシコにおいてアメリカインディアンについて行なった研究では、彼は特殊な培地をつくり,トラコーマ患者の材料を培養し出現したすべての細菌集落を取り、これを猿のマブタの内側の結膜に接種して試験したのである。このような実験は、実に根気強い忍耐と努力とを要する。このようにして彼は, Bacterium branulosis と称する一種の桿菌を分離した。これをチンパンジー及び赤毛サルの結膜に接種すると、トラコーマに似た病変を発した。この病変は,他の接種しない眼にも伝染したのである。彼はまた ポリオ及びロッキー山紅斑熱のいわゆる濾過性病原体(現在のウイルス)について研究し、またカラアザールの病をも研究した。

 彼は、ついにアフリカに航行する日がきた。実に、1927年10月のことであった。11月17日ゴールドコーストのアクラに上陸し、直ちに研究室を作って研究に着手した。やがて彼はアフリカにおける研究を終わり、ストークスの濾過性病毒発見を再確認し、レプトスピラの存在を否定して、帰航の準備をしていた。しかし、不幸にもこの時、すでに野口黄熱に感染していたのである。症状はたちまた増悪し、ついに 1928年5月21日に永眠した。ああ、彼は生まれて16歳にして故郷を出て、20歳にして東京で学び、中国・満州で防疫に従事し、25歳にして米国に留学し、ロックフェラー研究所にあって伝染病の研究て従事すること30年。その間,欧州に渡り南米に渡航し,研究の足跡は世界に広くゆき渡って,ついにアフリカの異郷において永眠したのである。彼の死を聞いた時,著者(志賀潔)は万感胸に迫り,ついには涙の潜然とおちるのを覚えた。

 ああ,彼が入生のために尽した功績は,永く歴史に伝うベく,彼のー生は独り研究に棒げて,他を顧みる暇がなかったのである。ある参観者が彼の研究室に来て,彼が夜おそくまで研究室にいて余念のない様子をみて,彼はいつ家に帰るのかと尋ねたところ,野口は客に答えて,「家 ? ここが私の家だ、なぜそんな事を質問するか」と,叫んだという。

 しかし,彼は異郷にあって彼の老母親堂を思い,恩師を思うとき、眠ることができぬ夜があったであろう。彼は孝道に厚く、また祖国を思う念は,彼の胸中に燃えていた。彼の血管には,確かに白虎隊の血が流れていたのである。

 英国の病理学者ヤングは、アクラにいて野口の研究事項を整理しようとしているうちにヤングも黄熱に罹り,野口の後を追って 5月29日に歿した。ストークスも黄熱の濾過性病毒(ウイルス)を証明した後,間もなく黄熱を発して逝ったのであった。三人の黄熱研究者は,相前後してアフリカの地において,黄熱病原研究のためにその生命を棒げたのである。学術と入道に尽した野口の勲功は、天皇の耳に達し,破格の思告をもって,勲功二等に昇叙し旭日重光章を授けるご沙汰があった。

 

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18.ディビット・ブルース

Darvid Bruce (1855-1931年)

(1)

 イングランドのエジンバラ医学校を卒業したディビット・ブルースは,海軍に入って軍医となった。これは1000ドルの年俸を得ようとしたためで,彼は軍医としては熱心でなかった。彼は地中海のマルタ島に送られ,そこで彼は怪しげな細菌学の研究を始めた。給料から高価な猿を買い、妻君を助手とし,患者の血液を採って猿に注射した。こうして彼はマルタ熱の病原体である極めて微細な球菌を発見したのである (ブルセラ菌の発見)。現在も人畜共通伝染病として恐れられているブルセラ症のブルセラBrueellaは、発見者の名前Bruceにラテン語の接尾語ellaを付けたものである。

 ブルースは、マルタ島よりエジプトに派遣されたが,間もなく英国に召喚されて,ナトレーにある英国陸軍医学校の教授となった。サー・ウォルター・ヘーリー・ハッチンソン(ナタール・ツーヅー島の総督)と知り合となり、その協力で1894年アフリカに渡航し、熱帯病の研究に従事することとなった。ブルース及び夫人がツーヅー島英国ナガナ専門委員になれたのは、彼の開運の第一歩であった。

 ナガナとは,この地方に流行する牛及び馬の伝染病である。このナガナのために家畜の損害はおびただしい額に上った。ブルース夫妻はウボモの丘に研究室を造り、1台の顕微鏡と数本の試験管と注射器を備えた研究所の幼稚園を造った。そして百姓が集めて来た病気牛馬からの血液を採り、夫人が標本を製作していわゆるままごと的な研究を始めたのであった。彼は、動物の血液の中に小さい竜のような小動物が活発に運動いているのを発見した。これはトリパノソームであった。

 間もなくブルースは、ピーターマリツバーグに派遣され,その地に流行する発疹チフスの研究を命じられた。彼自らこの発疹チフスに感染したが、幸運にも辛うじて死を免れた。再びウボモに転勤することとなり,ここでナガナのツエツエハエによるナガナ病の伝染径路を研究する機会を得た。

 ボーア戦争が起って,ブルース夫婦は9000人の英軍人とともにレディー・スミスに籠城した。そこには30人の事医がいたけれども,一人の外科医もいなかった。ブルースはかって研究のために猿・牛・馬・犬を解剖した経験があったため,「メス」を取り外科医書と首引きで傷兵を手術したという快男子である。

(2)

 中央アフリカのビクトリアナヤンザ湖畔に睡眠病という病気がある。英国の皇立科学院は,この睡眠病の研究委員会を組織し派遣した。ブルースは、委員に任命されたので多数の猿を買い,精巧な顕微鏡をも備え、ナバローハ博士は助手であった。夫人も助手という名義で、一行に加わった。ブルースは、カステラニーから睡眠病患者の脊髄液にトリバノソーマを発見したことを聞き,直ちに睡眠病の検査を開始した。黒人の患者から接種した脊髄液にトリパノソーマを証明できたが、また同じ地域に住む健康者の脊髄液にもこれを検出した。ブリースはこの結果に対して,自ら次のような疑問点を出して問題解決しようと務めた。1) 病原体の本来の宿主はなにか。2)どのようにして睡眠病は,患者より健康者に伝わるか。3) 病毒の本体は,どのようなものか。4) 睡眠病のヒトからヒトへの伝藩に,特殊な環境事情があるかないか。

 彼は、夫人とともに睡眠病の流行地方を旅行し,この疾病は湖沼及び河川付近にのみ発生することから疾病の発生にはツエツエバエの生存が伴うことを確認した。ブルースは、ウガンダの総理大臣アポロカグワに睡眼病がツエヅエバエにより伝染することを説明し,このハエ(当地ではキブーと呼ぶ)を撲滅出来れば、睡眠病を消減させることが期待できるだろうとも述べた。ハエを少なく出来なければ国民も亡ぶだろうとも進言した。そこで,アポロ総理大臣命令を出して「湖沼より15キロ以内に居住してはならぬ」、睡眠病患者が全て消減した後には,居住はさしつかえない。ギブーハエが人体を刺せば,睡眼病に感染する。そうしてこのキブーは,湖沼の水辺で生活しているものである。この点に注意すれば,我々ウガンダ国民は永久に健全であるだろうと教えた。ブルースは英本国に帰り、バース騎士司令官の席を授けられ,ウガンダでの研究の功を表彰された。

 さてアフリカには睡眠病が消滅すると期待されたが、結果はそう簡単にはいかなかった。ニャンザ湖の東岸カビロド地方は、睡眠病の存在しない所であったが、突然睡眠病の患者が発生した。英国皇立科学院室は、再び専門委員を派遣して原因を調査させた。ブルースは、マルタ熱の研究に多忙なために委員は辞した。ツーロッチが委員としてアフリカに行ったが,1年も経たぬうちに感染して,永久の睡眠におちたのは気の毒なことであった。

 長身なブルースは、小柄な夫人と共に,再びアフリカに渡航して再び睡眠病の研究を続けた。ブルースは、3年間以上人が住んだことのない場所で,2876匹のハエを採取した。このハエを5頭の猿に接種したら,そのうちの2頭が睡眠病をになって死んだ。そこで,ブルースはトリパノソーマが野獣でも増殖することを考え、クロコダイルポイントと呼ばれ野獣が多い危険地点に行き、野性の豚・ワニ・鳥類などを片端から捕らえて検査した。その結果、牛とオットセイにトリパノソーマを発見して,新たに予防法をたてた。その後,ビクトリアニャンザ湖付近には,睡眠病は絶滅した。ツエヅエバエの幼虫に病毒が母ハエから伝わるのであろうか?,セオバルトスミス が米国牛に多発するテキサス熱の原因体を伝播するダニでは、親から子につたわることを証明した例に従って研究した。しかし、ブルースは"NO"であった。ブルースは、1911-1914年まで アフリカにとどまり 60歳に達した。この時ドイツ人タウテが人間の睡眠病のトリパノソーマと牛のトリパノソーマは同じでないとして,牛のトリパノソーマを自身に注射して試験した。ブルースは、この類の実験で陽性の成績を得たとしても真の陽性かどうかは別問題と主張した。ブルース自身はナガナと睡眠病のトリパノソーマが同-種でないという証明は,急には解決し得ないものと信じていた。

 

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19.フリッ・リチャード・ショウダン

Fritz Richard Schaudinn (1871-1906年)

 東プロイセンのローゼニンゲンという寒村に生まれたショウダンは、初め博物学を学ぼうと考えていたが、シュルツのもとで原虫学を修めてベルリン大学の動物学教室の助手となり,1898年には講師に任命された。ショウダンの研究の第1期は、動物細胞の核に関するもので、セントロソーム、中心核などを精密に研究し,核分裂という現象を明らかにした。ついで、アメーバ発育環の研究をして、原虫の無性生殖と有性生殖を発見した。その結果として、マラリア原虫の発育を明確にすることが出来た。ショウダンは、このアメーバの研究によって、厚生衛生局よりティーデンマン金賞メダル (1903年) を受賞した。

 1901年ロビンノ研究所に赴任するやマラリアの研究に従事し、マラリアと蚊の関係を明らかにした。リゾポート蚊の研究から大腸アメーバと赤痢アメーバとの区別を明確にし、赤痢アメーバをエントアメーバヒストリティカと命名したのはショウダンであった。梟に寄生するHalteridum と Leuco-zytozoon を研究して、蚊により伝染されること、及びトリパノソームとなり、スピロヘータとなる時期をもつ発育環を明らかにしたのは,学界においても最も興味をひけるものであった。

 彼の名声はますます揚がり、1904年にはベルリンの健康政策局に栄転した。翌年の春彼は ホフマン教授の好意によって梅毒の患者材料を供給され,熱心な研究の結果ついにスピロヘータ・パリダを発見した。その後これを他のスピロヘータより区別するために,「トリポネーマ・パリダ」と改めた。そうしてこの大発見の発表には極めて謙譲的な態度をとって,少しもこの大発見の功名を自分のことと吹聴しなかったのは,識者の敬服したところであった。

 彼は,研究家としての天オであった。いかなる些細な事実をも見逃がすことなく幾多の発見をした後,巧にその原因と結果の関連を検討し、完全なものとする技能は他の者の及ばないものがあった。彼は常に快活に談笑し,彼の研究のまえには困難というものがないようにみえた。こうして彼は先人末発の真理を探り得たのである。彼は、研究のためには彼自身を忘れるほどの熱心さで,彼自身を研究の材料とすることはあたりまえの出来事であった。彼は無害な大腸アメーバを何回となく飲んで大腸アメーバの感染と発育とを研究した。1900年にその第1回自己感染実験を試みた時は、カロメルの服用で3日にしてアメーバの消失を見た。しかし、それより1年半の後,再び試験した時はカルメロは何の効果も示さず、昇汞液及びメチレン青を潅腸して、アメーバを全く消失させるのに3か月を要したという。彼の希望は原虫学を、細菌学のように発達させようとしたのである。彼は学術雑誌「Achiv fuer Protiste-kunde」を創刊して,動物学者・医学者及び植物学者の研究をー団として生物学の領域を拡張し,発展させようと努めたのであった。

 1906年の春、リスボンで開かれた国際医学会議に出席したが、たまたま以前に飲んだ大腸アメーバによる感染が重症化して帰国し、直ちにハンブルグのエッペンドルフ病院に入院した。その病気の原因は、彼の自家感染実験で、劇烈な肛門周囲炎を起こしたのであった。大腸の腸瘍は腹腔にまで達し、急救手術のかいもなく同年6月20日昇天,彼の霊はこの世を去った。僅かに35歳の学者は、学術界に大きな足跡を残して昇天したのである。ハンブルグの研究所が1991年に出版した615頁の全著作集は、この天才的研究者の最後を飾るものである。この若い堅実な学者を失ったのは,測り知れぬ人類の不幸で,かつ大きな損夫で世界の学者はみなこの不幸を悲しみ弔ったのであった。

 

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20.アドルフ・ワイル

Adolf Weil (1848-1916年)

 ワイルは、ハイデンベルグで生まれた。ハイデンベルグの大学にて医学を修め,当時の大学者ブンゼン、キルショフ、ヘルムキルツ、フリードライヒなどの講義を聴いた。後に同大学の教授となり梅毒学を講義し、フライドライヒの死後を継いで内科を担当した。しかし、咽頭結核を病んでイタリアに行って開業し,後にウイスバーデンに帰って逝った。

 彼は咽頭鏡に改良を加え、咽頭学に精通していた。ハイデンベルグ大学にいた時,内科医としての鋭敏な観察力に優れていたことより学内において高い尊敬を受けていた。1886年にいわゆる急性不明熱の患者4例について報告した。この疾病は、7日の潜伏期にて急に症状を発し,脾臓の肥大と黄疸とが特徴で,7~12日間持続する。1887年ワーグーは、この疾病をに,「Weils einheimische biliose Tyhus」と名付けた。1888年フィールダーはこの疾病を単に 「ワイル病」と名付けた。このワイル病の病原体は彼の生前、日本の稲田博士などによって1914年に発見され、翌年ドイツにおいてウーレンヒュツトとフロンメによって1915年証明された。

 

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21.アルホォンス・ラベラン

(明治9年-昭和4年,1876-1929年)

 アルホォンス・ラベランは、1845年にパリで生まれ、ストラスブルグ大学で医学を学び、歴史に名高いフランスとドイツとの70年戦争に軍医として従軍した。アルジェーにいた時マラリアの研究を始め、コンスタンチンの陸軍病院においてマラリア患者の血液を検査し、赤血球内に運動する小体を発見したのは1880年11月6日のことであった。彼は、熱心に顕微競をのぞいていた時、赤血球内にある小体が色素を含有して運動するのを見つけ,また赤血球外に飛び出しては鞭毛を出し、活発に運動するものを発見した。これは動物性小体でなければならないと考えたのであった。彼の記載を見れば,その精確な観察をうかがうことができる。

 1884年にバルトクロスの陸軍軍医学校の教授となったが、かたわらパストゥール研究所でも研究を続けていた。マラリア原虫の発見によって、フランス国の科学アカデミーは彼を名誉会員に推薦した。後にコルシカ島に行きマラリアの撲減を計画し,蚊の絶減と湿地の治水を実行して効果を挙げた。1907年にノーベル賞を贈与され、1908年には数人の友人とともに熱帯病理学会を設立した。その会長に選挙されその要職にあったが,晩年に至りその地位をカルメットに譲って引退した。1922年パリにおいて76歳の高齢にて逝った。実にマンソンの死後3週間目であって、ラベランはマンソンより1歳若かった。

 

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22.ロナルド・ロス と 23.ジョバンニ・グラッシー

Ronald Ross (1857-1932年),Giovanni B. Grassi (1854-1925年)

(1)

 ロナルド・ロスは、軍医としてインドに勤務していたが,学者というほどの人物ではなかった。 ジョバンニ・グラッシーは、昆虫や白蝶などについて研究し,その世界では知られた学者であった。しかし、この二人は、マラリアの研究において、相助け相並んでその研究を完成したことを認めない訳にはいかない。奇妙な因縁である。

 ロナルド・ロスは、インド・ヒマラヤ山麗にて生まれ,10歳の時に父に伴われて英国に帰って教育を受けた。しかし,彼はラテン語が嫌いで、文学や音楽を好んだ。後に船医となってロンドンとニューヨークとの間を航海し,その間にIndia Medical Service の試験に合格したので、インドに渡った。1888年に休暇を得て英国に帰り、ローザ・ブロッザムと結婚してインドに再度もどり、「Child of Ocean」なる本を出版し、あるゴルフクラブの幹事を勤めた。マドラスにおいて多数のマラリア患者の血液を検査したものの、プラスモジウスを発見することができず、ラベランの発見をののしっていた。これは、彼の細菌学入門の初期であった。ロスが 35歳の時 (1894年)、ロンドンに帰り、パトック・マンソンの研究室を訪ねた。マンソンは、往年中国の上海で開業していた時,蚊がフィラリアの伝染媒介をすることを発見した。マンソンは、ロスにマラリア患者の血液標本を示して,プラスモジウスを説明をした。ロスは、これを見て初めてプラスモシウスを頭に入れることが出来た。ある日マンソンは、ロスにマラリアは蚊によって伝染すると説明し,インドに帰ってこの分野の研究を行なうことを勧めた。ロスは熱心にこれを聴いて,マンソンの手足となって働こうと誓った。「私は単に貴殿の手であって、それは貴殿の研究課題である」と言った。彼は彼自身の能力をよく理解していたのである。

 ロスは、この大問題を携え,1895年3月28日に夫人及び子供を英国に残して、単身インドに向った。インドのセクンデラバードに駐在を命じられたからであった。ここで蚊の調査を開始し、マラリア患者の血液を吸った蚊の胃にいかなる変化が起るかを観察した。彼は詳細な書信をもって、マンソンの指導を仰いだのであった。

 年は流れて1897年となった。彼はインドの熱風に吹かれて,空しく顕微鏡の前に座わるのみであつた。彼は一詩を得た。後の得意の領分である。

      What ails the solitude ?
      Is this the judgment day ?
      The sky red as blood
    The very ticks decay.

 この時、フセイン・カーンというマラリア患者が来て,一種の蚊をロスに示した。この蚊はロスがいまだ注意しなかったもので,その学名を知らぬうえ,彼はこれをブラウン蚊と呼んだ。この蚊にカーンの血液を吸わせ、毎日その蚊の胃を検査した。時は8月19日、ロスは1匹のフラウン蚊の胃壁に小球体を発見した。この小球体は蚊が患者の血液を吸って,4日後に発生することがわかり,またこの小球体の発育することを知った。彼は,またー詩をうなった。

   I have found thy secret deeds.
      Oh, million-murderling death.
      I know that this little thing.
      A million men will save
      Oh, death, where is thy sting?
      Thy victory, oh grave?

 彼の得意をとくと思うであろう。彼は英国医学雑誌に報告書を送ったが、この小球体の内容については精しく説明し得なかった。

 その後カルカッタに移り,立派な研究室と助手マホメド・ボックスを得て,蚊の研究にふけった。ボックスは、スズメなど鳥を捕えて、鳥のマラリアについて研究した。蚊がこのマラリアの鳥の血液を吸い,7日にして胃壁に生じた球体が破裂して紡鍾状体が出て,この小体は蚊の体内に入り,ついに唾液腺に集まるのを発見した。これでロスは蚊が刺すことによって、マラリアを人体に伝えられることを考えた。マンソンのいう、蚊が水に落ちてマラリア病原体が水に出で,これを飲んだ人にマラリアは伝染するだろうとの想像を否定したのであった。しかしながらロスがこの成功に達したのは,全くマンソンの指導によったのである。

 彼が助手ボックスとともにスズメについて試験し,蚊が鳥マラリアを伝藩することを確実に証明したのは、1898年6月25日であった。彼はこの結果を,マンソンに電報で知らせた。マンソンは、彼の成加を大いに喜び、この電報をエジンバラの学会において披露した。学会はロスの研究をー大発見なりとし,これによって人のマラリアの伝染の仕方をも明かに出来るものとして大いに賞賛した。

 しかし,マンソンはロスを励まし、なお進んでマラリアについて研究し,国家の名誉,英国の名誉のため,ますます奮闘すベしと言い送った。また電報でコッホは、イタリアにて蚊の研究に失敗したと聞く、君は英国のために、この発見を完成させよと激励した。しかしながら,惜しいことにロスはこの時神経衰弱になって,ついにマラリアの研究を断念した。著者(志賀潔)は1909年にボンベイの学会に派遣された時,ロスも招待を受けて,英国より10年ぶりにインドに来たのを見た。彼はこの時に何ら学術講演をなさなかったと記憶している。

(2)

 ジョバレニ・グラッシーがイタリアのパビアに生まれたのは、スパランツァニーの死後 100年目であった。彼は医学を学ぼうとしたが,動物学者となった。彼の最初の研究は、白蛾及びこれに寄生する微生体で,またウナギの研究においての造詣も深かった。グラッシーは観察力に富んだ偉大な研究者であった。

 彼はロスが蚊の研究に指を染める以前に,蚊とマラリアとの関係に着眼して,その研究を始めた。しかし,蚊の種類が多いために結果はまとまらず、その研究は成功しなかった。1898年にロスがブロトソーマの実験に成功した年,グラッシーはロスの報告を知らずに,全くこれと関係なしに再びマラリアの研究に着手した。その動機は,実に彼の愛国的熱心さより出たものである。ローベルト コッホがイタリアに遠征して,蚊の研究に着手したのを聞いた時,ドイツ人には負けたくないと彼は審然として立ち,この問題を解決しようと決心したのである。

 ローベルト・コッホは、結核治療の研究が思わしく進展せず、また夫人エンマフランツとの離婚問題後,彼は世界の各方面に遠征を試みたのであった。コッホはイタリアに来て,グラッシーに遇った。グラッシーは、数十種の蚊が存在する中で,特種のものがマラリアを伝藩するもの信ずると話した。コッホは、これを静かに聞くのみであった。コッホは、自分の研究もまた他人の説も常に冷静に受けとめ考える人であった。

 グラッシーは考えた。蚊がいて,マラリアのない所がある。しかし,蚊がいなくってマラリアの発生する所はないと。この信念より彼は、マラリアを伝染させる特種の蚊を発見しようとしたのである。彼は警官が強盗を捕えようとするとき,村中の人民をー人づつ調査するように研究を進めるべきものと考えた。

 こうして,グラッシーは1898年7月15日イタリアの低湿の地方を巡廻し,蚊の専門家となって,到る所に蚊を調査すること数十種に及んだ。ついに彼はマラリア地方に従来から知られたAnopheles clavigerと名付けられたー種の蚊が伝播者であるだろうと考えた。グラッシーは、ローマに帰って,その年の6月28日にリンセーアカデミーにてAnopheles claviger がマラリアを伝播すること疑いなしと講演した。ローマの丘上にドクター・バスチァニリーの病院があり,この丘上にはかつてマラリアの発生したことが無いと言われている。この病院に入院していたゾラ氏が,自身の身を挺してグラッシーの試験に参加した。グラッシーは疑わしい2種の雌蚊数百匹を捕えて来て,ゾラ氏を刺させた。ゾラは幾週の後にも,全く健全であった。ある日グラッシーは、ロレッタに行き,マラレア患者の血液を吸った蚊をもってゾラ氏を再度刺させたら10日目に彼は、マラリアの症状を発した。これが,彼の研究の成功した最初の実験であった。この時グラッシーの研究を助けたのは,ビグナミーとバスチアニリーの二人であった。この時グラッシーは、ロスの鳥マラリアと蚊との試験報告を読み,蚊の胃壁に生じた小球体の研究を初めて知った。彼は、Anophelesの胃における変化と唾液腺における変化を研究して,マラリア病原体であるマラリア・プラスモシウムの蚊体内における発育循環を明かにした。

さらにマラリア撲滅について人民に教えた。「薄暮に外出することなかれ,マラリアは君らを待ち伏せているからである。暑いタ方に外出するならば手袋とベールとを忘れてはならぬと」。グラッシーは実地家であった。彼はその予防法の実績を示さんがために、カパシオ平原に行き,そこのアルバネラにおいて実験した。時は1900年の初夏である。彼はイタリアの女王より補助金を下賜され,これをもって実験に取りかかった。112人の同志とともに彼は蚊帳を備えた家屋に住み込み、タ刻にはこの蚊張に納まった。その土地の住民415人は,平常のとおり蚊張の外に住んでいた。この415人はおおかたみなマラリアに罹ったが,蚊張内の112人のうち5人を除いて,みな健全であった。ただし、この5人は前にマラリアに罹ったことがあり,その再発をきたしたのであったという。このようにして,グラッシーは、マラリア伝播の方法を明かにし,またその予防撲減の根本を確定したのである。

 ロナルド・ロスは,ノーベル賞金10万フランを与えられた。ジョバンニー・グラッシーはノーベ賞にもれた。しかし、彼は熱誠な愛国者である。彼が祖国のために奮起し,彼が同胞のため,かつ世界人類のために、偉大な功績を遺して,安らかにこの世を去った。

 

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24.セオバルト・スミス

Theobald Smith(1859~1923年)

 パストゥールはこの世から病原菌を撲減して人類の疾病を消滅させようとし,かたやコッホはツベルクリンを発見しこれを用いて結核を駆除しようと企てた。丁度その頃1893年セオバルト・スミスは、アメリカの北部で生まれた牛を南部に移すとテキサス熱になって斃れ,また南部の牛を北部に送っても北部の牛にこの伝染病が流行する不思議さに注目した。自然環境との関わりに着目した。この観察点は、後日ブルース, マンソン、グッシー, リードなどの研究に多大なヒントを与えた。彼の恵眼は、すでに壮年時代にうかがわれるのである。1884年にスミスは、25歳でコーネル大学を卒業し、その後、再度オーバニー医科大学で医学を修め医師となった。その当時大学には細菌学の講座はなかった。彼は臨床医学が好きでなかった。彼は顕微鏡でミクロの世界を観察することを好み,大学卒業直後には猫を解剖し腸の内容物を顕微鏡で検査したという。スミスは、ドイツに行って、コッホの細菌学研究の方法を習得したいと希望したが,その機会を得ることが出来なかった。彼はドイツ語を独学で修得し,コッホの研究報告を読んで独りで細菌検査のすばらしさを楽しんでいた。

 牛に流行する米国南部のテキサス熱が畜産界の大問題となった。1888年ワシントンの農務局長サーモンは、セオバルト・スミスに命じてテキサス熱の研究をさせた。キルボーンとアレキサンダーとが、彼の助手として働いた。1889年にスミスは、テキサス熱の中心地であるノースカロライナより7頭の牛を取り寄せ,また6頭の北部牛(健康地より) とともに試験を開始した。南部牛には多数のダニが着いてたが,北部牛にはダニを発見出来なかった。試験の結果、このダニに刺された北部牛はテキサス熱を発病し,そうでないものは健全であることを証明した。

 ダニが何か関係するならば,その伝染の方法はいかなるものであろう? 例えば,南部牛と北部牛とを同棲させても,20日にして北方牛を隔離すれば健全である。しかし、30日またはそれ以上長く共棲させれば必ず発病するのである。あるいはまた南部牛を引き上げた野原に北方牛を放牧すると,30日以上たつと発病するのである。スミスは,ダニを卵より孵化させた。この幼いダニは病毒を保有していないものと信じ実験をしたが,これを健牛に着けると牛は発病した。すなわち病毒は卵に伝わり,幼ダニに移行するのである。牧場においてダニが産卵し、卵が孵化するには20日以上を必要とするのであった。この事実は、上記の伝染方法を説明する唯一のものであった。こうしてセオバルト・スミスがダニによって伝染病が伝播される事実を証明したことが,マラリア、その他の伝染病の研究の手本となったのである。

 

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25.パトリック・マンソン

Patrick Manson (1822-1922年)

 パトリック・マンソンは、英国スコットランド人で幼少のころは動物採集と魚釣が好きであった。大学を修了し医師となった1866年に中国上海にいた実兄の勧めに従い、支那海軍税関付属医員となって、台湾高雄に来た。高雄で初めてカッケ患者に接し,その他種々の熱帯病に関する知見を得たという。彼は高雄に滞在した3年間の給与から、自分の受けた大学教育に父親が支払った学資総額70ポンドを父に返済したという。このー事によっても,彼の真面目な性格をうかがうことができる。その後にアモイに転出し、そこの海員病院に勤め多数の象皮病患者を手術した。

 1873年英国に帰り,ある日英国博物館において研究中、ルイスが1870年インド・カルッタで血液及び乳ビ尿にフィラリア・サングイニスと名付けた寄生虫を発見したという論文を偶然に見つけた。熱帯の象皮病の病原体は、この虫でないかとの考えがひらめいた。1875年彼は新婚旅行に出かけて遠くアモイに旅行し,この地で直らにフィラリア感染症の研究に着手した。この時,彼は中国人助手二人を傭い、昼夜交代で患者の血液を検査させた。助手の提出した成績は、解釈するのが非常に困難であった。すなわち、昼間の検査では血液中にフィラリアを発見することは極めて稀なのに反し,夜間の検査ではフィラリアを容易に発見したのである。

 大発見は往々にして,このような予期しないところに現われるものである。マンソンは、この大発見をロンドンの有名な寄生虫学者 コボルトに連絡した。コボルトは、マンソンの成績即ちフィラリアの周期性について学界で報告した。すると,茶目なヤジが飛び出して,「ハハー、フィラリアは昼夜を知るための時計を持っているとみえるネ」と満座を笑わしたという。

 1877年にマンソンは、ロンドンにおいて朝8時半に自殺したフィラリア患者を解剖する好機を得た。ミクロフィラリアが患者の肺及び大動脈に引きこんでいるのを発見した。これで彼の期待したフィラリアの周期性の説明はついたが,何ゆえに昼間フィラリアが末梢血管より肺や大動脈に逃げこむかという理由は不明であった。あるいは,生活上の性質によるのであろうか。またはミクロイラリアは、蚊がヒトの血液を吸う時に末梢血管に出てくるのではあるまいか。元来このミクロフィラリアは、口腔も肛門もないので,特殊な袋状のもの中に包まれている。患者の血液を取って冷やすと、ミクロフィラリアはこの袋を破って這い出してくるのである。

 とすると,このミクロフィラリアは、人体内においては発育し得ないはずで,中間宿主の体内においてのみ,発育するのであろう。このような作業仮説をたて、マンソンは蚊に注目し、これを捕えて解剖し,ついに蚊の胃においてフィラリアが袋を破り、脱皮して胃壁をとおり抜けて筋肉に入り,ここで成長する事実を発見した。これは,実に1877年のある日のことであった。こうして,フィラリアの発育循環がマンソンによって明らかにされた。マンソンは、中国において各種の動物鳥類を検査して、種々のフィラリアの種類を発見した。

 1883年マンソンは 香港に移住して開業した。多数の患者が診察を受けに来る大盛況の毎日で、研究の時間はさておき、睡眠の時間もなかった。しかし、1886年マンソンは香港医学会を創立し、翌1887年香港医科大学を設置して、中国人を教育した。孫逸仙もこの医科大学校の出身者の一人である。この学校は後に香港大学と改まった。

 スプルー病を初めて記憶に留めたのもマンソンである。この疾病の本態は、今日なお不明であるが、多くは酒飲家にくる。彼はスプルーとは何かと聞かれると、飲み浮かれるの過去分詞であると言って笑っていた。天津にいた李鴻章が舌癌に罹ったとして、マンソンの応診を求めて来た。マンソンは航海6週の日を費し天津に行ってみると、舌癌でなく舌下膿瘍であった。これを切開してたちまち治癒させたという (1887年)。患者も医師も、こんな幸せはない。

 彼は香港に23年間滞在して、故郷のスコットランドのに錦衣を飾って帰った。学術上の名誉はもちろん、彼はまた有富な身となって帰って来たのであった。そうであるのに、天はこの篤学の士を幸福で平和にしなかった。香港ドルの大暴落と家事の不幸な出来事とにより、彼は再びロンドンに出て、開業する運命となった。その中にあっても彼は研究を怠らず、熱帯各地に依頼して士人の血液標本の送付をもとめ、毎日これを鏡検することを楽しみとしていた。このために、彼は数種のミクロフイラリアを発見した。

 1892年に船員病院で研究することとなり、各植民地より帰来する多数の患者を研究材料として、幾多の発見及び報告を出した。マラリア・プラスモデイウムの染色にメチレンブルーを用いたマンソン染色法を確立し、熱帯マラリアを発見したのはこの時代である。

 フィラリア研究より推論して、マラリアも中間宿主があって人に伝染するもので恐らく一種の蚊が伝染の仲介者であろうと考えたのがマンソンのマラリア・蚊媒介説である。この説を発表したのは、1894年であった。ときたまロナルド・ロスがインドから帰って来たので、マンソンはロスにマラリヤ説を説明して聴かせた。翌年ロスは、インドに帰り、マンソンより教えられたとおりに研究を進めて、ついにマラリア・プラスモジィウムの発育環とその意義を明らかにすることが出来た。この大発見はロスの手でなったとはいえ、マンソンの仮設を証明したに過ぎないのである。

 1897年マンソンは、英国植民地のために医学校設立の議を提出して、ついにロンドン熱帯医科学 を設立した (1899年)。開校以来年とともに隆盛に赴き、かつ熱帯病に関する幾多の研究及び発見は,この学校を発祥地としたのである。

 1913年にマンソンは、70歳にて隠退し、悠々自適の生活に入ったが、彼は到るところに周囲より親しまれ「heiliger Patrik」と呼びかけられたという。1922年4月9日78歳の高齢にて安らかにこの世を去った。これより数週間おくれて、ラベランもまた逝ったのは奇妙な因縁である。

 

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26.エドワード・ジェンナー

Edward Jenner (1749-1823年)

 1749年5月17日、宣教師の三男として生まれたエドワード・ジェンナーは,5歳の時父親を失い,兄の手で育てられた。彼は幼少のころより博物学に興味をもった。イギリス・ブリストルのドクター・ダニエル・ルドローのもとで医学の初歩を学び,その後ロンドンのセントジョージ大学で医学を修めた。その間ジョン・ハンター教授の家に寄居していた。

 1780年のある日、ドクター・ルドローに診察して貰いに来た百姓の娘がいうには,「私の病気は,然痘ではないと信じます。なぜなら私は、以前牛痘に感染したことがありましたから」。その言葉はジェンナーの耳に,強い響きを与えたのであった。その10年後の1790年に、この百姓の娘の言ったことをジョン・ハンター教授に話すと,「考えておらずとやって見るがよい」といましめられた。この言葉は若い学徒の脳底に,深く刻み込まれた。その時以来彼は、天然痘の研究をー日も忘れることなく,ある時は牛痘を取り,あるいは豚痘を取って試験した。こうして彼はこの両種の痘が,天然痘の変種にほかならずとの確信を得るに至った。

 この若い熱心な研究者は、何の躊躇もなく自分の長男に豚痘を接種し,一定日の後さらに天然痘の毒を種えてみた。この天然痘毒は何らの症状をも起さなかったので,彼は自分の考えが正しい事が判明したと喜んだ。さらに進んで研究してみると、痘の採取時期によってその膿を接種した後の成績が同-でないことを知った。すなわち,ある場合には局部発痘のみで予防力が弱く,ある時期の痘胞は全身作用を起こして予防力の確実なことが判った。これは,実にジェンナーの鋭敏な観察によるものである。

 そうするうちに,彼の目的が達成される時期が到来した。それは彼の堅忍不抜の賜であった。時は1796年5月14日,ジェームス・イプスという8歳の小児に,初めて牛痘を接種した。その材料は牛痘に感染したスラ ヘルメスという牛乳搾乳の一少女の膿を用いたのである。これこそ人に感染した牛種痘を、人体に接種した最初の実験である。7月1日に至ってこのフィプスに天然痘を接種してみたが、何らの異状をみずもちろん発病もしなかった。彼はこの予期せぬ好成績をみて,烈しい喜びの衝動を感じたのであった。今日私たちが彼の実験方法をみるに,学術的に何ら非難するところがないほど精確なものである。

 彼は、この研究の成績を英国皇立科学会報に報告しようと考えたが,友人の勧告によってー時思い止まり,1798年に自費出版の著書としてこれを出版した。彼はまたロンドンに出て,彼の実験を友人らに説明しようと試みたが,誰一人相手にするものもなく,むろん種痘を受けようとするものもなかった。世界的な大発見は,世俗の容れるところとならぬのは,致し方がない。

 彼は痘苗を,セント・トーマス病院のドクター・クラインに与えて,郷里ヘと帰った。クラインは、2~3人の小児にこの痘苗接種を試みて,効果があることを確かめることが出来た。ジェンナーの発見は、ようやく学界の注意をひくことになった。この時,クラインは手紙をジェンナーに送り,ロンドンに移住することを勧誘した。そして、クラインは1年の収入として,1万ポンドの保証を与えた。しかし,利のために屈せず,名誉のために動かぬジェンナーの崇高な人格は、この友人の勧誘を断ったのであった。

 間もなくして,ジェンナーの有力な礼讃者が現われた。ヘンリー・ヒックスは、ジェンナーの種痘を小児に接種したのを手始めとし,次にはレディー・グラフィン・モルトンの一人息子にも接種した。その成績をみたバークレーのグラィンはプロイセンのウイリヘルム四世大帝王に種痘を勧めて,その王子などに種痘させた。 一方,英国の議会は,10,000ポンドの贈与を決議した。1803年に皇立ジェンナー研究所が設置されて,痘苗の無料配給を図った。その後、痘病乱造の弊害があって成績不良の事実があったが,その調査のために設けられた委員会は,ジェンナーに有利な報告をしたことにより,1808年英国議会は再び20,000ポンドをジェンナーに贈与して,彼の生活を助け,なおまた国立種痘研究所を設立して、ますます種痘の普及を図った。ジェンナーは、最初の種痘を受けたジュームス・ フィルプスのために住宅を建設し,その庭園に自づからバラを植えて,彼の優しい心を示したのは,懐しい極みである。ロシアの女皇は、その皇子に種痘して、その名をワクシノフと付けたのはすこぶる振ったことである。

 一方では,ジェンナーに年金を与えて表賞した。ロンドンの医学会は、金碑を贈呈し,オックスホード大学は理学博士の学位を与えた。1805年にナポレオンは、軍全隊に種痘を行なうよう命じたという。このようして,ジェンナーの種痘法はたちまち全世界に拡まり、わが国へもジェンナーの発見後数年ならずして伝えられた。ここに,面白いエビソードが伝えられている。英仏戦争が起って,ナポレオンの英国に対する憎悪の念が最高に達した時のことである。ジェンナーは オックスフォード大学のドクター・ウイックハムが捕えられてナポレオンの陣中にいることを知り,ドクター・ウイックハムを釈放されたいとの願書をナポレオンに送った。このジェンナーからの書面をナポレオンが馬上で受け取り、よくも見もしないで捨てた。皇后ジョセフィーヌが傍から,「陛下よ、その願書は、誰からのと思し召し賜うかと聞いた。それはイギリスのジェンナーよりですぞ」と申された。ナポレオン皇帝は直ちに,「その男の願いなら許可せよ」と命じて、直ちにドクター・ウイックハムを自由にするよう前言を取り消したとう。

 ジェンナーは、1788年にカャサリン・キングスケートと結婚し、二男一女をもうけ、極めて平和な家庭を作った。この最愛の妻は、彼より先に1815年に逝った。その後、ジェンナーはバークレーに隠退して、静かに世を送った。脳卒中に罹って、1823年1月26日に74歳でこの世を去った。

 

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27.梅野 信吉

(文久2年~昭和5年, 1862-1930年)

 獣医学博士梅野信吉は、明治25年に北里柴三郎博士が私立衛生会伝染病研究所創設の時、同所に入って血清製造技術部の主任となった。明治25年以来40年間、忠実にその職務を果たした努力家でった。容貌魁偉な男子、ますらおであって、先輩を厚く敬い、義侠的精神の動くところは何ごとも恐れない意気があった。しかも、研究には熱心で、観察力が緻密な人であった。

 血清製造の傍ら牛痘苗(天然痘の予防接種)の研究に勢力を注ぎ、ついに犢(仔牛のこと)体継代法を大成した。勲六等旭日章を賜わったのはこの時である。ハワイ在住の同胞より、精工な胸像を贈られた。

梅野の説明によれば、一定面積の畑に種子を播くとき沢山播くと芽は密生して出るが発育は遅くい小さい。これに反してを疎に種子を播くと強大に生長する。これと同じく、犢体に天然痘ワクチンの種(痘苗)をうえる場合これをある程度希釈して接種すれば発痘が強大である。従って、痘苗は代を重ねても減弱することがない。彼の犢体継代法は、要するにこの原理に基づいたものである。このようにして、彼は牛痘苗の大量製造に、世界で初めて成功したのであった。

 彼は、またこの痘苗製造より考え、狂犬病が痘菌と同じくグリセリンに対して抵抗力の強い点より、病毒は両者同一種に属するものと推定し、犬に対する狂犬病予防ワクチンを製造した。このワクチンは1回の注射によって、犬を完全に免疫させてしまうというもので、狂犬病のワクチンの発明者であるパストゥールが望んでなし得なかったものを完成したのである。

 これこそ、狂犬病の真の絶滅法であり、そのうえその実施が容易であるので、この梅野氏法はやがて全世界で行われることになった。該法は梅野氏の名とともに、こうして世界の予防医学に永久に伝えられるべきものとなった。

 

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28.ハワード・ティラー・リケッツ

Howard Taylor Ricketts (1871-1910年)

 アメリカ・オハイオ州に生まれたハワード・ティラー・リケッツは、シカゴ大学を出て,後に同大学の助教授となった。アメリカ西部にあるロッキー山地方に多発するロッキー山紅斑熱を研究して、特殊なダニによって伝染することを証明した。次いで、発疹チフスの研究に着手し、コロモシラによって,伝染が媒介されることをも確認した。彼は、ついに発疹チフス患者の血液中に発病7~11日に表れる小さな桿状体を発見したのであった。1910年4月,発疹チフスの研究を進めるためメキシコに遠征したが、不幸にも発疹チフスに感染して39歳の若さで1910年5月3日この世を去った。

 メキシコの細菌学研究所に大理石像が建設され,リケッツの名は細菌学史上に永久の記念を残している。

 

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29.パウル・エールリッヒ

Paul Ehrlich (1854-1915年)

(1)

 エールリッヒ先生は、幼少年時の頃から奇才で,彼が考えることは万人の想像もつかぬものであった。そうして彼の暝想が着々と実現されるのをみた時,世界は初めて彼を天才的学者として敬意を払うようになった。

 先生は,1854年3月ドイツのシレジア地方のシュトレーレンに生まれた。ブレスラの中学に入った時,文学の教師は「Das Leben ist eun Traum」という題を与えた。

 パウルの書いた文章は,全く化学的であった。いわく,生活・生命は,静かな酸化作用によって起る。また夢は、脳の酸化作用の変調によって現われる。教師はこの作文に対して「不可」を与えた。この話しは永く逸話として伝えられている。

 後に彼は,ブレスラウ、ストラスブルグ、フライブルグ、ライプチヒなどの大学で医学を学んだ。しかし,彼は解剖学で組織や臓器の名前を暗誦することを嫌い,死体解剖の時間には組織の切片を染色して細胞の構造を研究していた。このように彼は化学に最も興味をもって学生時代にすでに探い造詣があり、彼の化学に関する知識には化学専門の教授も舌を巻いていた。

 ある日、有名な教授のワルディャーは,何をやっているかとエールリッヒに質問をした。「ハイ、教授先生私は色素の結合の研究をしています」と答えた。この学生の考えは老教授より一歩前に進んでいたのである。エールリッヒは、ラテン語をよく勉強していた。「Corpora non agunt nisi fixata」(結合なければ働きなし)は,彼の脳裏に深く刻まれていた座右の語であった。

 エールリッヒは、ローベルト・コッホより10才若かった。コーンハイムの研究室において、コッホの脾脱疽菌に関するデモンストレーションを初めて見た時,大いに感ずるところがあった。エールリッヒはコッホが結核菌を発見する以前に,病巣組織内に結核菌を見ていたが結晶体なのだろうと考えていた。1882年3月ベルリンにおいてコッホが結核菌を発見したと聴いて,「これぞ本物である」と直感し、直ちにコッホの研究所に行き、結核菌の染色法の研究を開始した。その後エールリッヒは、結核に感染してしまい、エジプトに静養のため転地したのは35歳の時であった。

 1890年にエールリッヒは健康を恢復したのでエジプトより帰国し、再びコッホの研究所に入った。今度は免疫の研究に着手し,植物性毒素でマウスを免疫して免疫遣伝を証明した。また、毒素と抗毒素との関係を精細に試験した。彼の実験が常に正確な計算を伴うことは,彼の独得の研究方法であった。

 1896年にエールリッヒは、シュテグリッツ市に「血清研究所」を設立して、免疫血清の研究に従事した。エールリッヒは、ベーリングのディフテリア免疫血清の検定法に満足せず、もっと確実な方法を確立しようとしたのである。多数のモルモットに色々な組み合わせでディフテリアの毒素と抗毒素とを接種して、毒素と抗毒素は一定の倍数で一定の反応をすることを証明した。また毒素をトキソイドに変化させ得ることを知って、トキソイドを用いた免疫血清の間接検定法を研究したのはこの時である。間もなくこの検定法はドイツ法として、ドイツ政府より正式に採用されることになった。 こうして、エールリッヒの私立血清研究所は、今は国家に代わって免疫血清の検定を行なう公認の研究所となった。

 1899年、フランクフルト・アンマインに国立研究所が創立され、エールリッヒはその所長に任命された。この研究所に「実験治療研究所」と命名したのは、エールリッヒが平素の抱負を達成しようとすることの意志発表とみるベきである。エールリッヒはこの時 45歳であった。

(2)

 エールリッヒがシェテクリッツ時代に発表した抗原抗体反応に関する側鎖説は,この時になっても、なお1・2の反対があった。グリューバーは、エールリッヒがユダヤ人であることの人種的偏見より,攻撃の手を緩めなかったのは見苦しいことで,ドイツ科学界の一大汚点とみられる。またキリスト教徒の頑迷な偏見として非難すベきものである。エールリッヒは、常にこれに対し「Unverschamt」と言ってのけていた。

 1901年にエールリッヒは研究協力者のモルゲンロス・マルクス・ザックとジフテリア菌毒素に関する最後の試験を行ない,これを学界に報告した。モルゲンロスが「モルモット」の心臓内接種を考えたのはこの時である。

 フランクフルト研究所の創立当時は、溶血反応の全盛時代であった。パストゥール研究所のボルデーと大いに議論を戦わしたのはこの時であった。有名なアレニウスは遠くスェーデンのストックホルム市より来て数週間フランクフルト研究所に滞在し、アレニウスは得意な計算法を用いて、溶血反応を理論的に研究したのもこの時である。この時,著者志賀潔のいた研究室が広いので、アレニウスをこの室に迎えた。著者がチフス菌などを取り扱うため,その危険を気遣われて,エールリッヒ先生の注意で,著者は他の室に移された。こうして,エールリッヒ先生はアレニウスを賓客として待遇し、大いに尊敬を払われた。アレニウスに対する度量をみて、われわれは心から先生の崇高な入格に敬服したのであった。アレニウスがコペンハーゲンのマドセンとともに膠質化学の立場より免疫を論じたのはこの時からである。

 エールリッヒ先生は、各国の雑誌に毎日目を通し,特に生化学に関したものは特に精読していた。アニリン色素に対しては、一流の大家であった。ドイツ・フランス・イギリスの報告を読んでこれに批評を加え,その取るベきものは他日の研究の材料として見逃さなかった。先生の書斎には書籍及び雑誌が山と積まれソハァーのバネはそのために沈没してしまった。こうして,研究には脇目を振らず,その他のことには全く無頓着であった。

 ある日、ミッンヘンよりベイルが訪問しようとして電報を寄せたとき,「来るなかれ」と返電した。ベイルのおうへいな態度が先生の気に入らなかったとみえる。「来るな」との電報を受け取る前にベイルは、エールリッヒを研究所に訪ねた。エールリッヒ先生はベイルを迎えて、いきなり私からの電報を見たかと質問した。ベイルが「イイエ」と答えると,先生は,今までのことを打ち忘れたかのような態度で,彼を親切に案内した。このことが,助手達の笑話となったのを今も記憶している。先生は側鎖説の説明には図解をして,何人にもこれを見せた。紙片がないときは、「カフス」や靴底に「色チョウク」で書いて説明した。夫人はこれをよく知り、家庭では各室の机という机には,必ず小紙片を備えて置いた。先生の道楽ともいうベきものは、探偵小説とタバコで,25本入りのハバナ産最上の箱を一日で空にするという喫煙家であった。また夜は時々、高等数学を勉強しておられた。

 エールリッヒ先生は,癌の病原研究に着手した。この時,主としてこれを助けたのはプロバセックで組織的検査を行ない、マーラはマウスに癌の移植を行なった。この時ワッセルマンは、癌の治療にSelenium-Eosinを用いたが実用には達しなかった。著者は先生の命を受けて2, 3の治療試験を試みたが,この研究は先生の最後の目標としておられたのであったろう。

(3)

 1902年にエールリッヒ先生は、化学物質による治療法の研究に着手した。著者はその助手として働いたが,先生の高弟モルゲンロスやナイセルやザックスは、化学療法の研究を気嫌い空想だろうと考えていた。

 化学療法は,先生の20年来の抱負を実現したのである。大学卒業後フローリッヒとゲルハルトの内科教室の助手となり、タウリン、コカイン、メチレン青を兎に注射して、化学物質の臓器への結合する状態を実験した。この実験は生体染色のはじめである。その業積は二冊の著者、「化学的物質の構成,分布及び作用」(1880年)と「臓器の酸素需要,色素分析研究」(1885年) に載せられている。

 これによれば,細胞は種々の受容体を有し,これが細胞表面にあるために栄養・増殖などの生理的機能を営む。抗体産生もまたこの作用の一方法に他ならないと論ずるのが側鎖説の根拠である。

 果して、そうであるなら細胞の受容体を侵すことなく,しかも寄生体ないし病原菌の受容体と結合する物質がなければならない。マラリアの病原体プラスモディウムに対するキニンのようなものを製造すベき研究は先生の一生の事業であった。

 ラベランは、トリパソームを発見し、マウスにこれを接種したところ,1~2日にして血液中で増殖し、4~5日にしてマウスは死んだ。これは,試験に最も便利なものである。先生がこの適当な試験材料を得て、化学療法の実験に着手したのは、1902年すなわち著者(志賀潔)が先生に就いた翌年であった。

こうして試験したものはアトキシンを初め数百種のアニリン色素誘導体で1年余を費した。「試行錯誤の連続で、汗を流す毎日であった。エールッヒが考え志賀が汗を流した」とエールリッヒが書き残しているのは事実であった。

 先生は,毎朝試験の方法を書いた紙片を各助手に渡し,正午ごろ各研究室を一巡して試験の成積を問い,「何か新しい発見は ?」と尋ねる。その晩先生は、自宅に帰ってから助手に与える実験方針を,紙片に書くのであった。左手に葉巻タバコ箱を抱え,右指は葉巻タバコを持って。

 先生の脳には化学の百科事典が納めてあった。研究室の机に乱雑に並ベられた薬品を取り,試験管内にこれを注いで変化をみ,直ちにこの方法をヘキスト社及びバイエル社にいる先生の特約の化学者に送って,新色素を製造させるのであった。ベンダ博士とベルトハイム博士は最後まで先生のために,勤めた化学者である。

 われわれは,ついに一種類の色素が極めて有効であることを発見した。先生は,これに「トリパンロード」と名を与えた。

 しかし,数週間の後、マウスの血液に消去したと思ったトリパノソームを再びを認めた。これは色素に対し抵抗性となったものである。トリパンロートはCaderaには効果があっても、Maganaには効力が弱い。こうして、実地治療上には完全なものでなかったが、化学療法の理想が初めて実現されたのである。

(4)

 1906年にフランクフルトの銀行家ゲオルゲ・シュペィヤーの未亡人フランシスカ・シュペイャーの巨万からの寄付金によって、シュペイャー研究棟が建てられた。北里研究所の秦佐八郎が、このシュペイャー研究所に入った。エールリッヒ先生は、スピロヘーター症の化学療法の研究に着手した。先生はアトキシルを取り,例の机の上で試験管を振って実験し、アルギシルより数百の誘導体が作り得ることをみて、これをベルトハイム博士に相談して製造させた。秦佐八郎は、これを-々試験していくのであった。

1906年にショーダンは、梅毒の病原体スピロヘータ・パリダを発見した。この報告書を読んだ先生の脳裏には,梅毒の化学的療法がひらめぃた。何となれば,病原体が発見され、動物試験 (すでパストゥール研究所のルーとメチニコフ及びコッホ研究所のナイセルのチンパンジーを用いた試験があった) ができる以上、化学的療法が実験され得るわけである。その後スピロヘータ・パリダは家兎のこう丸に接種すると増殖するとの報告が出た時、秦は直ちにその病毒を取り寄せて兎に接種した。

 1909年8月31日は、記念すべき日である。エールリッヒと秦は、梅毒性潰瘍を生じた兎に606番目の試験606号を注射したら,その潰瘍は乾燥しその上萎縮して治り,またスピロヘータが消失するのを発見したのである。ベルハイム博士も来てみて驚いた。まもなく,各国より見学に来る学者が引きも切らぬ盛状況を呈した。

 先生は、親友コナラート・アルトにその606号を送って,患者に実験させ,ケーニッヒベルグの学界にその結果を発表され、先生は606号(サルバルサンと呼ぶ)の発見と化学的構成と動物実験とについて講演された。

 先生は,先ず606号を1万人の梅毒患者に接種して、その効果を確かめた後,世に出そうと決心した。1910年中には65,000箇のサルバルサンが各他の官公立病院に送り出された。その間に問い合わすもの,606号の分与を請うものが引きも切らず、日に数百通の手紙があり,先生は一々返信を出すのであった。秘書アルクァルトは、タイピストとして先生の手紙のタイプを打っていた。来訪者の列は研究所外の道路上に数町も続き,その応接に忙殺されるエールリッヒ先生は,実にいたわしい極みであった。7年間の先生の努力は初めて酬われた。しかし,先生はこのために,健康を害された。

 著者(志賀潔)が1913年に再び,先生をフランクフルトに見舞った時、先生の痩せ衰えられた面影を見て驚いた。1924年に,三度目にフランクフルトに行った時は,先生はすでに亡くなり,先生の霊前に花輪を捧げて、深く先生の鴻恩を謝し,先生の功積を追慕し,さらに先生の崇高な人格を偲んで,去りがたい気持ちが一杯であった。先生が健康を害したのは,確かにサルバルサンの研究のときに始まる。動物実験よりこれを人体に応用しようとしたときの心遣いと疲労とは,痛わしい限りであった。そうして,また,平素好まれた葉巻タバコも、これに加わったであろう。欧州戦争の始まった年,ドイツ帝国が亡びようとする序幕の開かれた時,先生はハンブルグの温泉場で,静かに永遠の眠りつかれた。1915年8月20日死亡。

 先生は,常に語られた。今日の科学研究には4Gがなくてはならぬ。いわく、Geld, Geduld, Gluck, Geschickである。ある時,日本の産物は T, S, Cであろうと私に尋ねられた。ハイ!と言って私は考えてみたが、お茶、Seideまでは思いついたけれども、Cは分らなかった。先生はCampherと教えてくれた。

 明治大帝の崩御なされました時,私はフランクフルト在留の同胞とともに,遥拝を行ない、私は日本文の式詞を読んだ。エールリッヒ先生も列席されて,敬意を表わされた。涙声であった私の式詞の朗読をみておられた先生は、翌日研究所に来て私の手を握って式事を賞められた。これは,私の最大の記念として終生忘れることのできぬものである。

         Ehrich先生墓標、前の敷石には
             Paul Ehrich
        と刻されてある (1924年9月6日写す)

 

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30.秦 佐八郎

(明治6年-昭和13年,1873-1938年)

 秦博士は、明治6年 (1873年)島根県に生まれ,幼くして秦家の養子となった。岡山第三高等学校医学部に入学した。その非几な学才は在学中からを認められ,卒業後井上・荒木両教授につき,内科学及び医化学を修めた。明治31年に上京し伝染病研究所に入り,北里柴三郎博士の下で細菌学を学んだが,彼の明晰な頭脳と精緻な考察力とで,着々と業績を挙げた。

 当時最も危険な病原菌と言われたペスト菌の研究に従事して,彼はいかなる困難をも克服して用意周到,少しも粗漏なく,精確な実験を実行し得る器量を示した。

 明治40年に北里研究所からドイツに留学し,初めコッホ研究所に入り,次いでモアビット病理研究所に転出し,更に明治42年2月にフランクフルトの実験治療研究所に移って,エールリッヒ先生の下で化学療法の研究を学んだ。初めは,回帰熱スピロヘータの動物実験を行なっていたが,たまたまイタリア大学で梅毒スビロヘータの増殖が家兎睾丸に接種することで成功したのを聞き,直ちにイクリアに出向いた。家兎睾丸の材料を入手しフランクフルトに帰り,治んど寝食を忘れてその実験治療研究に従事した。その結果、大いにエールリッヒ先生の信頼を得た。そして,ついに606号 (サルバルサン) の実験を完成して,世界に秦の名声を揚げた。

 翌年の8月に帰国し,明治45年7月に医学博土の学位を受け,昭和8年に帝国学士院委員を仰せ付けられた。昭和13年11月22日に66歳にて病死した。

 

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31.ウォルター・リード

Walter Reed (1851-1902年)

 黄熱研究委員会の委員所長となったウォルター・リードは,好紳士であった。キューバに黄熱が狂暴を極めた時,その原因については色々な説があった。永くキューバに開業していた眼科医キャロル・フィンレーは,黄熱は蚊によって伝染すると主張していたが、これをまともに考えている者は居なかった。

 1900年キューバのサンクリストバルドハバナにおける黄熱の猛威は、猖獗を極め数千人のアメリカ兵が感染して死亡した。その死者の数は、スペイン兵の弾丸に打たれて,死んだのよりも多かった。レオナルド・ウッド大将の幕僚の3分の1は黄熱で斃れた。ウッド大将はキューバを占領したが、黄熱の敵には震え縮んだ。

 ワシントンよりハバナに重大電令が発せらたのは、1900年6月26日であった。ウォルター・リード大佐は黄熱に対し特別使命を受けて,キューバのクマドスに来た。リードは、17歳で大学を卒業し,後にセオバルド スミスの下で細菌学を学んだ。リードとともにキューバに来た者の1人は,ジェームス・キャロル博士であった。ジェス・ラゼアルは、ヨーロッパで細菌学を学んだ人で妻君と二人の子供があり、35歳の血気盛りであった。アリスティデス・アグラモンテは、キューバ人で黄熱に一度罹ったことがあった。リードを含めたこの4人が,黄熱研究委員となった。

 この委員の第一の目的は,病原体の発見であった。彼らは患者の血液その他を精細に検査し培養を試みたが,すべて陰性に終わった。リードは,ついにフィンレー博士を呼んで,彼の考えを聴いた。フィンレーは、斑点のある蚊の卵を示して,これが黄熱伝播者であると話した。リードは、この卵をラゼアルに与えた。この人は、イタリアに学び蚊についての知識があった。卵を孵化して,一種の綺麗な蚊が発生するのを見たのである。

 リードは、黄熱患者発生の状態を観察した結果に,黄熱は決して患者より患者に伝染するのではなく家屋より一定の距離のある交通しない、他の家屋に伝染したり,あるいは患者が死んで後,2週間をおいて突然にまた,患者が発生したり、その関係は何らかが昆虫に病毒が伝わって,一定の発育を遂げるものと,考えるより外はなかった。リードが蚊を研究しようとしたのは,彼の精確な観察より出発したのである。

 ジェームス・キャロルは身を挺して,実験に当たりたいとリードに申し出た。8月27日にラゼアルが患者の血液を吸った蚊を取り,これをキャロルの腕に着けた。キャロルは,46歳であって、妻君と5人の子供があった。

 二日後キャロルは,違和を感じた。彼はマラリアに罹ったと考え,研究室に行き,自分の血液を採取して検査したが,マラリアの病原体を発見できなかった。翌日彼は,黄熱病室に移された。この病院に米国の志願兵でウイリアム・ディーンという人がいた。この人も志願して、同じく蚊に刺された。2人ともに黄熱に感染したのであるが、幸いにして快復した。 ラゼアルは、この二人の犠牲的人体を使った試験をみても,満足しなかった。彼は、精確な学術的研究を実施したいと考えた。そこでラザニマの黄熱病室で蚊に患者の血液を吸わせて,これを飼養していた。研究中に偶然彼は自分で飼育していたその蚊が,自分の手甲を刺しているのを見た。時は,9月13日であった。翌日彼は発熱し遂に黄熱病に罹り,1900年9月25日に死亡した。

 リードは、ウッド大将に面会して研究の成績を示し,さらに研究費を請求してキャンプ・ゼアルを建てた。彼は、ここに人道に対する戦争を開始するのであった。実験希望者には,200ドル(現在の200万円程度)を与えることにした。最初の志願者は,オハイオ州からのキッシンジャーとモランの二人であった。キッシンジャーは15~19日前に,患者の血液を吸った蚊の刺螫(毒を刺すこと)を受けた。彼は発病したが,幸いにして快復した。次にスペイン系移民の5人が志願した。そのうち4人は発病した。

 黄熱は、患者の衣類より伝染するとの仮設を証明したいがために,キャンプ・ラゼアルに特別実験室を造り,患者及び死者の衣類毛布などを入れて、これに志願者を収容した。この室No.1は防蚊設備を施したものであった。初めの志願者はクック博士と二人の米兵で,数日間No.1室にねおきをしたが発病しなかった。次の志願者は、米兵3人で3週間この室No.1に住んだが,3人ともに健全であった。

 No.2室は,綺麗な室であった。床や寝具は、すべて消毒されたものを備えていた。ここに、ジョン・モランという者が人道のためと,自分自身を実験に提供した。もちろん手当金は,受け取らなかった。1900年12月21日の正午彼は沐浴を終わってNO.2号室に入った。リードとキャロルは容器より15の雄蚊……すなわち、ステゴミア… …を室内に放った。この蚊は何度か、患者の血液を吸ったものである。モランは床に横たわるや,直ちに蚊に襲われた。30分間の間に7回も刺された。われわれはかって グラシーがアノヘルをゾラに刺させた実験を思い起すが,マラリアはキニンを用いて直ちに治すことが出来る。しかし、モランの場合はこれと大いに異なり、絶望というべき実験である。クリスマスの朝モランは発病して、クリスマスのプレゼントはその枕頭に淋しく飾られた。しかし,幸いにして彼は快復して、余生を平和に送ることが出来た。キャロル博士は,人体実験の実施者の、6年後(1907年)に死んだ。黄熱のためという人もいる。

 ウォルター・リードは、1902年に盲腸炎を病み,手術のかいもなく遂に死亡した。夫人と二人の子どもは,年に2500ドルの恩給で生活している。キャロル博士及びラゼアル博士の末亡人も,同じく思給を受けて生活している。

 人道のために,進んで身を試験に提供したキッシンジャー一等兵は死を免れたが,その後麻痺が残った。黄熱が原因ということである。彼はただ150ドルと金時計(士官より贈与された)を持って,淋しく床に坐って,金時計の針の進むのを眺めるのみであった。しかし,天が彼に幸いして,彼は貞操な夫人の厚い看護を受けている。その後ハバナにウイリアム・クロフォード・ゴルガスとジョン・ギィテラスの二人とが来て,ステゴシア蚊の撲滅を図り、3か月にして黄熱を絶つことができたのであった。

 

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32.スタニスラス・プロブァセック

Stanislas Prowazek(1875-1915年)

 プロブァセックは、オーストリアのラノウ市の貴族の家に生まれた。幼少のころから、彼はもの思いにふけり、観察力は鋭く,深い考察に優れた性格は郷里の評判であった。学校の成績は群を抜いていた。17歳ですでに博物及び哲学に関する論文を発表して、世間を驚かした。

 プラハ大学で博物学を学び、特に動物学に興味をもっていた。学生として,「中性紅を用いた原虫の超生体染色法」という論文を発表した。しかし、彼の鋭い観察力は、単に原虫の形態的な研究では満足せず、生活体として原虫を取り扱わなければならないことを常に念頭に置いていたのであった。このようにして、彼はヘブィックが研究した原虫の接合に注目し,この方面の研究に努力した。ウィーンの動物学教室とトリエストの動物研究室で、プロブァセックは2, 3年の間に発表した論文の数は25に達した。その研究材料は、精子からプランクトンなどであった。短い彼の一生を通じて209編の論文を書いたのである。

 1901年に著者(志賀潔)がエールリッヒ先生のもとに居った時,少しばかり後れてプロブァセックもまたフランクフルトのエールリッヒ研究室に来て,エールリッヒ先生の癌研究の病原体方面を担当したのであった。

 しかし,彼は、余力をもって原虫の研究も続けていた。フランクフルトに留まること1年余にして,彼はトリエストでフリッ・シャウデインと知り合い,動物学研究所に入って助手となった。プロブァゼックとシャウディンは、動物学の大物として学界の花形となった。彼はロビンの風光明眉な海岸にいて,心のゆくまで研究を続けられた。トリパノソーマ・ルイスがシラミの体内で発育することを研究したのはこの時であった。彼は目で視る事が出来ない病原体に興味を向けたのもこの時である。1905年 にシャウディレの後を継いで,ベルリンのカイザー基礎研究所に入った。この時シャウデイレは、ハンブルグに居て梅毒の病原体スピロヘータ・パリダを発見して,全世界に大衝動を与えたのである。

 プロブァゼックは、翌1906年シャウディンが死亡すると、彼はその後を継いだ。やがてナイセルの梅毒の研究隊に加わりジャワに行った。しかし、彼は梅毒の病原体が、ルー、メチニコフおよびシャウディンによって研究し尽されたのを考えて,研究を天然痘及びトラコーム病原体に進めたのであった。こうして,彼はその反応物体の内部に存する基本小体に注目したのである。

 このジャワの旅行中プロブァセックは日本に立ち寄った。著者は彼を迎えて,フランクフルト以来の旧交を温めようとし,自分の家に彼を招待して歓談を交えた。またある日、銀座を散歩した後とあるカフェーに入り,著者は給仕に「カステラにコーヒー」を注文した。彼は目を円くして,「貴方はあのカステラニー博士を知っているのですか ?」と笑う。それから,カステラの説明やセイロン島のカステラニー博士の話となり,時の移るのを忘れたのは,今は早や二昔前となった。行くものは水のごとし,この尊敬すベき友も,今はこの世から去ったのである。

 東洋視察より帰ったプロブァゼックは、直ちにハンベルグの研究所に入り (1907年)、原虫研究室の主任となった。1908-1909年にリオデジャネイロのオズワルド・クルー研究所に行き,1910-1912年には眼科医レーベル博士とともに,サモア、スマトラ、マリアネンに遠征して,トラコーマ、トリパノソーマ、アメーバンなどの研究を遂けた。

 ハンブルグにおいては,主としてリケッチャについて研究した。その本態は,今なお不明で、これをもって直ちに病原体となすべきか否やは,彼も明言しなかったところであるが,いわゆる顕微鏡で視えない病原体の研究に新生面を開いた功績は消えることはないであろう。

 原虫の細胞生理学の研究は,彼独特の舞台であって,彼の該博な知識をもってこれを物理学とコロイド化学との見地より研究した。また,形態学では、化学的物質の原虫細胞に及ぼす作用を研究した。すベてプロブァセックの研究方法と観察とは、その正確さでは模範的なものであり,そして彼は哲学的基礎のうえに立つ生理学者で,また,その実験研究者であった。

 1913年にセルビェンに行き発疹チフスの研究をやり,翌年の夏にはロカ・リマとコンスタンチノーブルで研究した。その冬,コトバスに発疹チフスの大流行があった時,陸軍大臣よりの命を受けて,その研究に着いた。翌1915年2月に彼は,ついにこれに感染し,その月の17日41歳の若さでこの世を去った。ああ,彼は,彼が発見した新微生物あるリケッチャ プロブァゼキーのために,命を落としたのである。リケッチャもまた同じ運命に遭遇したのは前に記した。

 プロブァゼックは小柄な紳士で,むしろ,弱い体質な人であった。実に博聞強記で、また、よく読書した。エールリッヒ先生が最新出版のある本を示して彼に尋ねると、彼はトックにそれを読了していたので、さすがのエールリッヒ先生も舌を巻いて敬服しておられた。また,彼は極めて質素な生活振りであった。かつてフランクフルトを去る時、著者はマルクスやサックスと共に,停車場に見送りに行った。彼が電車より降りて来たのを見ると,数冊の本を新聞紙に包んで抱いている。マルクスは彼にこれが君の財産の全部かと尋ねると,彼は静かに「ハイ」と答えるのであった。彼の親しみのある,そして,温和にして静かな容貌は今も著者の眼底に探く刻みこまれたように残っている。

 

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33.リカルド・パァイフェル

Richard Pfeiffer (1858-1945年)

 リカルド・パァイフェルは、ポーセンの生まれの軍医で、コッホ研究所に入ったのは1887年であった。コッホ研究所では、ワッセルマンやコールなどと並び称されていた。彼の業績としては,インフルェンザ菌の発見がある。1894年にコレラ菌とその免疫血清との関係を研究し、モルモットの腹腟を仮りて試験すると,コレラ菌が溶解されるのを発見した。この現象をみた彼は,免疫血清が動物体内において,初めて活動的なものと考えたのであった。

 しかし,これがその後溶血作用の研究によって,血清中の補体の作用であることが明かにされた。そうして,この研究によりコレラ菌の鑑別法が決められ,パァイフェル反応の名称とともに,彼の名は永久に伝わることになった。パァイフェルは、またインドにおいてハフキンが盛んに使用していたコレラ予防注射を批判的に研究して,動物試験によれば必ずしもハフキンの言うように弱毒コレラ生菌を用いる必要はなく、むしろ90℃で殺菌した寒天培養菌が有利なことを提言した。今日の予防注射の多くは,このパァイフェルの方法にならって製造されている。

 1899年にコニグスベルグ大学教授となり、その後1909年にはブレスロー大学に栄転した。

 編集者追記:本文の最初にインフルエンザ菌の発見者であると志賀潔先生は、リカルド・パァイフェルを紹介しています。所がインフルエンザ菌の最初の発見者は、実際はパァイフェルと北里柴三郎の二人であります。100年前のドイツ語の原本を調べて最近判りました。北里柴三郎大先生のまな弟子である志賀潔先生が何故このような記載を残されたのかとても不思議でなりません。医学史に興味のある方は、私のこのホームページの「北里柴三郎博士の秘話」を開いて、「インフルエンザ菌、誰が最初の発見者か」を 是非呼んで下さい。この論文は、学術雑誌でも認められています。

 

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34.ウイルヘルム・コール

Wilhelm Kolle (1868-1933年)

 コッホ研究所で学び,後にベルン大学の教授となり,衛生学を教えた。彼は免疫学に関する幾多の研究があり,殊にワッセルマンと後にはクラウスやウレンヒュットと共著で出版した細菌学全書は全世界で愛読されている。

 レプラに関して彼は患者の鼻腟における潰瘍に注意し、これはレプラの原発病巣であって、その伝染は主として、鼻腔に始まるものであることを指摘した。南アフリカに遠征した時,コッホの研究を続けてリンダーペストの免疫試験を行ない,有効な血清を製造し,またいわゆる共同法を創成した。ペスト殺減作戦に加わってペストの研究をしたが,彼はその後,ペストの免疫には弱毒のペスト菌を用いるべしと提唱し、危険のない弱毒ペスト菌を得たと称し、コール・オットー培地 に0.5-5.0% にアルコールを加え,41-43℃ のフランキで培養したものを米人ストック博士にその使用を勧め た。ストロングはマニラの囚人数名にこれを注射したところ,発病して一大問題をひき起こしそうになった。その時以来弱毒ペスト菌の注射は、全く沈黙してしまったのである。

 1917年にフランクフルトに招聘され、エールリッヒの後を継いで以来化学療法の研究に没頭した。ネオサルバルサンやミオサルバルサンなどに関する多くの研究があり、またストバルゾーンの報告がある。コールは、人に対して自らを高ぶる癖があり,友人からあまり親しまれないのは惜しむべきである。

 

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35.遠藤 滋

(明治2年~昭和12年,1869-1937年)

 遠藤滋君は、昭和5年5月に還暦を迎えた時,同学の有志より盛んな祝賀式を挙げて祝福された。これは彼が30年前に発表した遠藤培地の発明が学界に貢献した偉大な功積に酬いるためであった。

 遠藤君は、著者の旧友であり,伝染病研究所時代の先輩である。彼は、宮城医学校を卒業して後,明治27年芝区愛宕下町の北里研究所に入って助手となり,かたわら養生園(北里柴三郎先生の創立された日本最初の結核療養所、現在の北里研究所附属病院) に勤務した。彼は腸チフス菌と大腸菌との鑑別法を熱心に研究し,大腸菌は「チフス菌」と異なり牛乳を凝固する性質に着眼し,その原因は酸発生に基づくことに注意して、ラクムス乳糖寒天を作り細菌集落の着色により鑑別し得ることを発見した。この報告の発表されるにさきだち,樫田亀一郎氏が殆んど同-の報告を東京医事新誌に発表したのをみて,彼は自分の原稿を撤回したという。彼の崇高な人格はすでにこの時に現われ,同僚間ではひそかに彼を尊敬していた。 彼は、写真乾板を暗室内において現像するとき,赤色光線の下で行ない得ることに注意し,赤色液を用えれば,明るい室内においても現像出来るであろうと信じていた。ためしに写真現像液にフクシン液を加えたらたちまち脱色したのに驚き,目的の達成は失敗に帰した。しかし,この事実により,現像液中の亜硫酸ソーダがフクシンを還元して,無色にさせることが判かり,彼は亜硫酸ソーダを作って同僚に示し,手指がフクシンで汚れた時,この液を脱脂綿に浸して拭えば,忽ち綺麗に脱色するとしてその使用を推賞していた。

 ある日,彼の「カフス」がフクシンで染まったのを例の亜硫酸ソーダで拭い,これでよいとして外出した。すると途中で日光を受けたこの「カフス」がたちまちにして赤くなったのに驚き,君は急ぎ途中より引き返して研究室に入り,沈思すること数時間、果然君の脳底にひらめいたことは,「酸類が日光と同様フクシンを酸化して,-旦還元したフクシンの色を再び出現させること」に考えついたのであった。彼はこの時を夜半まで研究室にいて種々研究し,ここに初めてフクシン培地製造の曙光を認めたのであった。この夜は恐らくは床の中で眠らないで歓喜の情に興蓄したことであったろう。

 フクシンが還元されて無色となるのはロイコバーゼと称し,エールリッヒ先生の既に知っていた事実ではあった。

 志賀潔著の細菌学者歴伝には34名の大細菌学者についての記載があるが、「遠藤滋」の名前はこの中には挙げられてない。培地の項目にあったものを追記の形で加えた[編者註]。

 

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遣稿「回想録」から

志賀 亮 シガ マコト

                    

 「故人の業績については長木博土が書かれるから,それを補うような事をとのお話で、あれこれ思案の末に筆をとる。……私は同じ理科系ながら別の道を進んだのだが、父志賀潔の晩年戦争末期に郷里へ疎開してからの十余年,生活を共にしていた。その間父が回想記などを執筆する時,資科を集めたりロ述筆記などの手伝いをした。……今原稿用紙と一緒に,二,三の単行本やおびただしい切り抜きの類を机上に並べたまま,想案をたてたりこわしたり、幾月かを無為にすごした。資料が多すざて,何を選び,どのようにまとめるめか問題なのである。その上肉親について語るのは,なんとも筆が渋る。……結局生い立ちから晩年まで四期に分けて年譜を整理し,その間を遺稿からの父の言葉と,若干の私の注記とでつないでゆく事にする」。

(1)

 1871年2月5日(旧歴で明治3年12月18日)宮城県士族佐藤信の第4子(3男)として仙台に生れる,幼名直吉。父は、伊達藩の下級藩士で副奉行つきの書記を務めていた。5歳の頃から父の家塾で漢書の素読を学ぶ。8歳仙台市育才小学校(現片平町小学校),13歳宮城中学(現仙台-高)。この頃母の生家志賀を継ぐ事になり名を潔と改む。志賀家は岩手県花巻の出,五代前から仙台に来り医を業とす,先々代は藩医となり士分であった。

 1887年、東京に遊学。しばらく予備校に学び、翌年大学予備門 (後の旧制一高),1892年、帝国大学医科大学(後の東大医学部)。

 ……私の生い立ちの頃は、300年の幕藩体制、鎖国主義から脱した日本が,自由民権とか文明開化とかいうかけ声の下に大急ぎで泰西文明の吸収に勉め始めた時である ……明治5年学制が発布されて、寺小屋式の教育から西洋式の学制が曲りなりにも形を整えてきていた。中学に進んだ頃,福澤諭吉の西洋事情、世界國盡を読んでは遠い西洋の文明国に夢を走らせ、学問のすすめを読んでは,少年の心、にも何か新しい時代の自覚ともいうべきものが芽生えてきた。……

 ……日本の片隅で私が少年時代を送っていた十余年の間に,細菌学の分野はどのように拓かれていったか。フランスの天才パスツールは産辱青熱の研究,鶏コレラ菌の免疫反応,狂犬病予防接種と跳進をつづけていた。イギリスの敬虔な医師リスターはパスツールの病原微生物説を創傷滅菌法にとりいれて,ここに外科手術の操技は画期的な進歩をとげた。ドイツでは地味な道をこつこつ歩いていたコッホは,脾脱疽菌の人工培養に成功し結核菌の研究を完成して,細菌学の研究方法に,確実な基盤を築きあげたのである。1880年代に入ると,これら先人たちに拓かれた細菌学の分野では,絢爛たる花が開き、つぎつぎに実を結んでいった。この年代は細菌学史上特にエイチインエイチイズと呼び病原菌探究の景も華やかな時代である。微生物界の獵人らが,われもわれもと競いたち凱歌は至る所にあがって病原菌発見の報告が相ついで発表された。……併し東北の小都市で教育を受けていた私は細菌学のさの字も知らずパスツール,コッホの名さえも知らなかった。ついでに言えば後年私が学んだ基礎医学の教程でも細菌学はまだ独立していなかった。……

 ……17歳青雲の志に燃えて上京,予備校1年,高等中学3年,医科大学4年,この8年が私の修業時代である。殖産興業,富国強兵,これがこの頃の時代の標語であった様だ。憲法は発布され帝国議会は開かれ,やがて宿願の不平等条約の改正を果たし日清戦争には驚異的な勝利を収めて,日本は開国30年にしてアジアの第一等国と自称するまでになった。私共は好きな時代に好きな学生時代を送り得たと言えよう。……この頃の学界の情勢を少し眺めてみると,私の修学時代は1890年を中にはさんだ前後10年である。病原菌発見の華やかな舞台はなお続いていた。先人に依って拓かれた肥沃な預野で,結実期の収穫に目のまわる様な忙しい時代であったとも言えよう併し1890年頃を境にして細菌学はその主流の方向を転じつつあった事がうかがわれる。即ちそれまでは微生物の病原性の同定や生物学的な研究が中心であったのが,その頃から細菌の病理学や免疫反応,またそれに基づく治療法の研究へと中心問題が移っていったのである。而してこのすう勢に先鞭をつけた1人はコッホ研究所にあった北里先生であり,免疫現象を解明して血清療法の基礎を造ったのが,たまたま同研究所の客員であったエールリッヒ先生である。……

(2)

 1896年,医科大学卒業,26歳,直ちに伝染病研究所に入り,北里柴三郎先生に師事する。翌1897年12月,赤痢に関する最初の研究を発表。…  1901年,ドイツ留学のため渡欧,フランクフルトの実験治療研究所でエールリッヒ先生に師事する。化学療法の最初の研究で先生の助手を務める。 1905年,帰朝,医学博士。1906年,第一回熱帯病学会(フィリピン),

1909年,二回同学会(インド)に出席。

 1912年,渡欧、万国医学会総会(ローマ)に出席。フランクフルトで再びェールリッヒ先生に師事,結核の化学療法を研究。1913年帰朝。

 ……私はなぜ医業を修めたか  養家が医業だったから。なぜ基礎医学の方に進んだか?。 病人を看る職業は私の性に合わないと思ったから。然らばなぜ細菌学を選んだのか?。この答えは簡単でないが,当時の細菌学が新興科学随一の花形であった事も理由の一つだろう。もっとも大学ではまだ独立の講座がなく,細菌学は緒方正規先生の衛生学の片隅で講ぜられ,実習の時間もなくて,講義のあとで細菌というものを顕微鏡で順に覗かせてもらった。卒業するとすぐ入所試験を受け伝染病研究所に入ったが,ここで先輩から初めて細菌実習の手ほどきを受けたのである。

 ……今まで繰り返し述べたように,私の赤痢研究は北里先生の懇切な指導の許になされたものである。私は大学を出たばかりの若僧だったから、先生の共同研究者というより,研究助手というのが本当だった。然るに研究が予想以上の成果をあげて論文を発表するにあたり,先生はただ前書きを書かれただけで、私一人の名前にするように言われた。普通なら当然連名で発表されるところである。赤痢菌発見の手柄を若僧の助手一人に譲って恬然として居られた先生を私はまことに有り難いことと思うのである。

 ……私は大変運が良かったのだとは私自身が一番認めるのだが,幸運の第一は当時細菌学の世界的ベテランであった北里先生から直接の指導を得たこと,第二はたまたま東京に於る赤痢の大流行に際会したこと、以上は改めて申すまでもない。この年流行の赤痢がいわゆる本型菌によるもので,これが分離しやすい菌種であったことも偶然の幸せだった。もし異型菌のどれかであったら、なかなか本体をつきとめられなかったろう。もう一つの幸運は細菌の凝集反応に関するヴィダールの研究が前年の末に発表されたことだ。チフス患者の診断に用いられたヴィダール反応を,いち速く末知病原菌探索の決め手として使ったのは私の手柄といえば手柄だろうが。こんな幸運が重なって私は赤痢の本体をつかむことが出来たので,同じ様な条件に恵まれれば赤痢菌の発見者となることは誰にでも,そうむずかしくはなかったろう。……赤痢の研究がー応まとまって,私は伝研二人目の留学生としてエールリッヒ先生のもとに行ったが、私はここでも大変好い巡り合わせに会った。ちょうど先生が免疫の基礎的研究を完成し,かねて宿志の化学的療法の研究に手を染められるその時期に際会して,化学療法の最初のお仕事の助手を命ぜられた。……

 以上自分の運が良かった話ばかりしたが,勿論何時もそうであった訳ではない。いや私の長い学究生活で,世界的に知られるような仕事をしたのは以上の3回だけで,あとは地味な研究ばかりに終始していた。第一に赤痢の研究にしても私は自分の半生をそれに没頭し,和文,欧文の論文20編はど書いているのだが,派手な仕事は最初だけで,あとは赤痢菌の分類とか疫学とか地味なことばかり,特に予防ワクチンは遂に完成でなかった。……赤痢以外では結核にも長年取り組んだが,初め有望と思った感作ワクチンも予期通りには発展せず,化学療法の方も2度目のドイツ留学以来,ア二リン系色素,青酸化合物,銅サルバルサン,最後にテルールと色々智恵をしぼってみたが,いずれもものにならなかった。癩菌の純培養に至っては朝鮮時代多少の野心を持って手にかけたが,先人の研究を一歩も出ず失敗に帰している。……

 ……もともと私は科学者として才能に恵まれたという自覚はなく,また生来明敏というよりむしろ遅鈍な性格で,学問の世界に身を投じて自家の学説を立て科学の新しい分野を開拓する如きは,自分の任でないことは自らよく知っていた。私のなすべき事,またなし得た事は,生来の器用さを生かし辛抱強い努力を重ねて,先人の拓いた道をたどってこつこつと仕事を続けて行くことであった。細菌学や免疫学がちようど開拓時代を過ぎて多忙な収穫時期になっていたので,私のような遅鈍な者にも成し得る仕事がいくらでもあったのは,私の幸せであった。……師に恵まれ,同僚学友に恵まれ,有能な協力者や助手に恵まれて、私の志した医学の発展に貧しいながらも若干の足跡を残し得たことは,自らの慰めとする所である。ただ顧みていささか遣憾に思うのは,朝鮮に職を奉じて教育や衛生行政にも関与することになり,学者として最も油ののつた時代というべき50代の10年間を学問-本に傾注することができなかった事である。……

(3)

 1914年,伝染病研究所の文部省移管に際し北里所長と行を共にして職を辞す。野にあって新研究所の創設に力を致す。
 1920年,朝鮮総督府医院長として渡鮮,京城医専校長を兼ねる。
 1931年までの11年間京城に在り,医学教育の他医事行政などにも関与する。
 1925年,欧米の大学視察のため渡行,ジュネーブ国際血清委貝会に出席。
 1926年,京城大学創立にあたり,医学部教授,同学部長となる。
 1927年,第7回熱帯病学会(インド)に出席。
  1927年,京城大学総長に就任,在職2年7ケ月。

 ……2度目のドイツ留学から帰ったのは,1913年の6月である。一年余り日本を見ないうちに明治の御代は過去の時代になり,年号も大正と改まると共に,私の研究生活にも一段落が劃されて次の新しい時期に踏みださるベき思いであった。留学中の研究や調査をまとめたり……それらもようやく片付きフランクフルト以来の結核の化学療法研究を続けるベく準備が整った頃,思いがけない事態が発生して身辺は又にわかに多忙になった。いわゆる伝研移管問題の突発である。……この年(1914)は私の生涯にとって最も感懐の探い年である。即に10月,伝研の文部省移管に際し当局と所信を異にして職を辞した北里先生に従い,同僚20余名と共に野に下ったのである。……

 ……ここに是非書きとめておきたいのは、この間に恩師エールリッヒ先生の訃音に接したことである。……移管問題の頃,即ち1914年の末頃には,先生の容態はかなり悪くなっていたのである。翌春になって大部健康を取り戻されたとマルクス博士から便りがあった。それで私は御見舞の手紙の中に、あまり御心配をかけない程度に今回の事件の経緯を報告した。やがて頂いた御返事に、北里教授とその門下のこうむったこの度の不幸には同情に堪えない。詳しい事は判らぬが,事情は推察するに難しくない。学問上の問題が学界以外の力で左右されるのは東西に間々見られる遺憾事だ。元気を阻喪せずに将末を期してほしい。という意味の事が書かれてあり,次のドイツの格言が添えて自分を励まして下さった。

   Ehre verloren, nicloren Gold verloren, nichts verlorn Mut    
      werlorn, alles verloren.
   名誉や財産を失ってもそれは何も失った事ではない,勇気を失った
   らそれは凡てを失った事だ。

 ちなみに記せばエールリッヒ先生の生涯はまことに恵まれた学究生活のように思われるが,必ずしもそうばかりでなかった。ユダヤ系の家に生れたので,社会生活の上で事ある毎に何かと不利な立場におかれ心労される事が多かった。それで今度の北里先生の悲運には格別の同情を表されたのである。この時頂いた手紙は,私にとって最後の御言葉であった。病中の先生の御心を煩わしたのを申し訳なく思うと共に, Mut verloren, alles verlorenの最後の御教訓をまこと有り難きことと思うのである。……その後,御容態が心にかかりながらも身辺の多忙にまぎれている内に、ある日の新聞に先生の逝去の報を見て愕然とした。いつかは悲報を手にする事とひそかに覚悟していたものの、今の自分らの境遇で先生の訃音に接しては,痛恨の情極まって悵然たるものがあった。

……新研究所の開所式に先立って北里先生は所員一同を集めて一場の訓示をされた。所屋建築の業新たに成るを以てここに部署を定め規律を設け更に大いに学業に励まんとす,諸子皆研究所をもって己が家としこれが発展を期せざるベからずという趣旨であったが,この時の状況が私の記憶にいまだに生きている。温厳な辞色でこれからの心構えを訓える先生に,白髪が目立ってふえた事に気がついた。先生はこの度の事件に身を挺して難局を見事に乗り切って来られた。今後もますます御元気であられるだろう。併し自分達はいつまでも先生に寄りかかっている事は許されぬ,これからは自分達の力だけで歩いて行〈ことに努めねばならぬ頭髪幾条かの白きを加えた先生に対して,こんな事を考えていたのである。自分のこういう思いのうちには,さき頃幽冥境を異にしたエールリッヒ先生の事も去来していた。私は40代の後半になって初めて自立の覚悟を深くしたのである。

(4)

 1931年,京城大学総長辞任,北里研究所顧問。
 1936年,ハーバード大学名誉学位。
 1944年,文化勲章。
 1948年,日本学士院会員。
 1949年,仙台市名誉市民。
 1951年,文化功労賞。

 次に個人的な事頂をまとめる。

 1900年、山口県士族井街清顕の3女市子と結婚 (1901年 長男直,1905年 長女博子,1907年 次男亮,1909年 次女和子,1911年 3女治子,1915年 3男章, 1 917年 4男信男,1919年 4女祥子,誕生)

 1944年6月, 妻市子胃癌のため死亡(63歳)。同7月,長男 直 任地台湾より帰航の途長崎港外で遭難死亡(45歳)。1945年,郷里仙台に疎開,次いで宮城県坂元村(現山元町)に移る。1949年3月,3男 章 戦病癒えずして死亡(34歳)。

 1951年,満80歳の賀宴(北里研究所)。

 1957年,数えで米寿の祝年を迎えたが,1月中句より病床に臥し,同25日朝老衰のため永眠。28日告別式,29日仙台市葬,仙台市北山輪王寺に葬る。4月東京において北里研究所その他の主催で追悼会。

 ……昭和6年官を辞してからは閑散の身分になった。在鮮十余年,特に総長時代は身心を労する事多く,しばらく休養を欲していたので北研の方も経営の責務から免除してもらった。専門の方も第一線から退いた思い,研究所の一室を借りて好き勝手な勉強を続ける事になった。要するに学究人としても社会人としても予後備の役に立ったわけである。

 ……家庭では息子娘らにうちを持たせねばならぬ時期がきて,これは楽しみというより苦労の方が多かったと言わねばなるまい。併し親の青任をーつづつ果して孫の数もふえてゆく事は老後の喜びこれに如くものはなかった。趣味の南画に一番精をだしたのもこの頃である。……この平穏な老後の生活も余り長くは続かなかった。日支事変がおこり,やがて大東亜戦争となり,私ら一家も戦争の大きな渦の中に巻き込まれていった。 ……

 ……私の幼い頃,郷里の仙台藩は 辰の役に敗れて朝敵となり肩身の狭い思いをした。下級武士だった父は禄を失って家計は苦しかった。中学生の頃弟のために夏休みを小学読本の書写に過した事もある。不如意と窮乏の味は私の古い記憶につきまとっている。私がやがて80に手がとどく頃になって、祖国日本があのような姿に変わっていくのを見ねばならなかった。父を失った私の幼い孫達は,祖父の幼時にもまさる悲運と窮乏のうちに育てられた。まことに奇しき運命というより他ない。併し、あの時代を生きのびて,日の丸もひるがえり君が代を聞ける今日までに至ったのは,まずまず幸せと言うべきか。……

 ……話題は変わるが,この80年の間に細菌学は驚くべき発展を成し遂げた。パストゥールが当時としては破天荒の学説だった病原微生物説を唱えたのは,私の生れた頃の事である。それから十余年の間に細菌学研究の基盤はほぼ出来上ったと言えよう。その細菌学がやがて免疫学を生み,血清学が岐れでた。一方伝染病学,疫学の方に枝分かれして公衆衛生学の大切な基礎になってがた。臨床面では初期の予防ワクチン,治療血清の研究が始まり,20世紀科学の華と言われる化学療法が開拓され,抗生物質の発見で更に躍進を続けている。

 ……微生物の世界も,動物界では原生動物からプロトッオアへ,植物界ではバクテリアからリケッチアへ、リケッチアからウイルスへ,ウイルスから更に生物無生物の境界域まで広がってきた。而して之等一切を包含する奥底には生命現象の本元があり,遺伝学や高分子化学とも関連して,そこは新しい生命科学の色々な分野が拓かれようとしている。自分の様な老人には展望もきかぬまでに拡がってしまった。私の学生時代衛生学の一部分の様に思われていた細菌学が、かくも末広がりに弥栄えてきたのを眺めては、うたた感懐に堪えぬと言うより他ないのである。……

(5)

 「煩雑になるのをさけて,年譜には著作に関する事を省いたが,故人の著述生活も赤痢病設から年の回想録まで50余年に及び学究生活の中で加成の部分を占めたと思われる。ここに旧著回想の冒頭の部分を引用する」。

 ……私の初めての著作は赤痢病論と題した菊判200頁あまりの小冊である。明治34年 (1901) の刊行だから,すでに半世紀以上も昔の事になった。第2版の折,チフス病論を加え,第3版では他の消化器系伝染病を含めて伝染病論前編とし,その他の伝染病を同後編にまとめて全く面目を改めた。その後も版を重ねる毎に膨大なものとなり,大正3年の改版では四六判の大型に改め,前後編で1,000頁をこえるに至った。

 前の伝染病論とは別個に,明治42年細菌学及免疫学と題する解説書を著したのだが,これも斯学の発展に伴い,版を重ねる毎に大部冊のものとなった。……大正13年の震災で両著とも紙型が焼失したのを機会に全改訂を志し,細菌学及免疫学総論、同各論の二部とし,先の伝染病論前編後編はこの各論のうちに収めた。

 併し朝鮮時代の後半は雑務と俗用に時間をさかれる事が多く,自らも学界の第一線から退いた思いで,前の大冊の内容をアップツウデートに保ってゆくのが困難になり昭和2年の第10版で絶版とする事にした。而して京城大学での講義の経験を加味して斯学の大要を簡約に述べたのが,昭和3年初版の細菌学及免疫学網要である。この小型版も思いの他世に出て、昭和16年迄6版を重ねた。……

 以上の学術書の他晩年の著書に,「貴洋翠荘閑話」,「パウル・エ-ルリッヒその生涯と業績」,「ある老科学者とせがれとの対話」「ある細菌学者の回想」がある。

 

目次 ▲▲ ▼▼

科学者への道  あとがきに代えて

田口 文章

 1980年代は,遺伝子および遣伝子工学時代の幕明けで,第二次産業革命が始まったと多くの人は言う。遺伝子工学とは,生命の本態である遺伝および遺伝子を研究する純枠な基礎科学である。しかし,遣伝子を操作することによって,親の性質が子供に伝わる現象やその遺伝という神泌な生命現象を支配している遺伝子の構造や機能を理解することが出来る(基礎科学としての遣伝子工学)。更にこの新技術を駆使することによって,人類は測り知れない恩恵を受けることが山来る(応用科学としての遣伝子工学)。

研究には基礎研究と応用研究がある時代の花形とされる遣伝子工学にも基礎と応用の両面があるように,一般的に言って,研究には基礎研究と応用研究がある。

基礎研究は、今迄に誰もが知らない未知な世界の探険・開拓であり,新しい知識と技術を捜すことである。そこには教育ママ、学習塾や手引書の類は存在しない。科学者は,自分の直感力・想像力と好奇心に従って行動する。この場合,時間の制限は全くない。制限しているものがあるとすれば,多分それは科学者の観察力、忍耐力、体力などであろう。基礎研究活動とは、開拓活動であり開拓者が望むなにかが今の世界にも沢山あるに違いない。その開拓すベきものは,全くさまざまである。

 応用研究は技術である。すでにわかっている事実や基礎研究の成果を利用して,人類に役に立つ何かを創りあげることである。新しい物を創りあげることは,重要性からも問題解決の困難性からも基礎研究と全く同価値である。従って基礎研究と応用研究には本質的な違いはない。しかし、強いて言うならば,その違いは意外性があるかないかであろう。また別の表現をすれば,基礎研究は発見であり,応用研究は発明であるのかもしれない。

 有史以前から現代まで非常に恐るべき病気であった痘瘡(俗に天然痘という)は、1979年10月に地球上よりついに消滅した。これは基礎研究と応用研究の両面のー致協力と人類の叡智と実践の賜物である。今から200年程前(1796年)英国のエドヮード・ジェンナーによって予防接種が考案され,その後多くの科学者の協力によって良質のワクチンが大量に製造され,更に世界保健機構が中心になって忍耐強く全世界で種痘撲滅作戦を展開したおかげである。

 恐るべき病気の別な代表であったポリオ(俗に小児麻痺という)も日本を含む先進諸国では消滅した。基礎研究がポリオをおこすウイルスの分離に成功し,基礎と応用研究の一致協力がワクチンの開発に成功をもたらした。基礎研究と応用研究を抜きにしては,いかに設備の良い病院を建ててもポリオは残ったであろう。

 全ての科学者が,湯川秀樹,朝永振-郎,江崎玲於奈,福井謙-のようにノーベル賞級の人である必要はない。ピラミッドを建てるために働いた人は、数多いであるうが頂上に最後の石を置いた人は一人であり,また月面に最初に降り立った人間は二人だけである。研究とは共同作業である。

前輪の轍は踏まず

 人間は他人の経験に学ぶことが上手に出来る動物である。「前輪の轍は踏まず」ということわざがあるように,失敗した経験が実際に自分にはなくても,他人の失敗を参考にしてやり方を変え失敗を避けることが出来る。またその逆に,他人の試みがうまくいけば,さっそくそれを真似ることも出来る。つまり,ある行為を実行に移す前に,他人が到達した結果までの過程を良く観察することで,他人と似たような(決して同じではない)経過と結果を得ることは期待出来る。このような背景より,偉大な先人達の足跡を学ぶことは非常に意味があると信ずる。

 多くの出版社の編集青任者達の言葉によれば,日本という国は科学者の伝記物および科学史的な読物が全く売れない(野口英世伝のみは例外),世界に類をみない奇妙な国であるそうだ。現在の若い人達に限らず,日本人全体が「自分とは関係ない」と,いとも簡単にあきらめてしまう性癖と,何事につけても過程をあまり大切にせず「結果よければ全て良し」とする傾向にあるとしか考えようがない。

人間は本来怠けもの

人間は元来怠けもので,衣食住を確保するために情報や報酬を求め働くのだとする考えもある。しかし,他の動物と違って人間は,もともと未知な情報を求める存在であると思っている。言い換えると,人間は知的好奇心・向上心を持って生まれて来た活動的に情報を求める傾向には2種類の型がある。 その第1は、新しい知識・情報への飢え,または胸中に時間的な空洞を感じた時で,テレビ,マンガ,映画等々と無方向性に何んにでも飛びついていく型と,第2の傾向は,自分の知識が不十分であることに気がついた時,ある特定の方向性をもって知的探索へと出て行く型とである。大学生達との会話を少し紹介したい。

 「君達が末知なるものに対して活動的になるのはどんなときだろう」
 「おきている時はいつでも活動的だと思います」
 「それでは,大学に居る時はいつでも活動的(積極的)なのかな」
 「眠いとき,またはボンヤリしている時以外はね」
 「どんな時に眼くなったり,またはボンヤリしているのかな」
 「自分の好きでないことや,つまらぬ(役に立たぬ)と思う事に対しているときです。でも興味
  の持てることがあれ積極的になると思います」
 「好きな事に対しては積極的になれるが,興味の持てない事に対してはー生懸命にやることはな
  いのかな。たとえば来週から期末試験が始まるとしても,そうかな」
 「試験だったら必要だから仕方がない。興味はなくてもー応やりますよ」
 「大学生である以上は,勉強をする必要性は判っているでしよう。しかし,いつもは積極的に新
  しい知識を得ようとしないのはなぜだろう」
 「ウーン」
 「わからない。教えて貫ったことないもの……」

知的好奇心

前にも述べたように人間は本来怠けものだとする考えもある。しかし,人間は本来活動的で自分の能カを発揮するために進んで働きたがり,好奇心にかられて知的探索を行なうということで勉強もするのだとも考えられる。イヤイヤ働いたり勉強したりしている人達も現実には確かにいる。この人達をどのように考えたら良いのであろうか。多分,適切な環境を与えられていないので(両親に責任の半分はある),物を創る労働や新しい知識を仕入れる楽しさ,更には自分の行為が他人のために役に立っているとの満足感を味わったことがないのであろう。とすると社会・両親・教師は,彼等の環境のなかに新奇な対象を準備する青任を負うことになる。新しい知識を得たこと自体が向上心を満足させ、主観的な喜びをもたらすという雰囲気を彼等の環境のなかに用意しておけば,楽しい学習が生ずることを期待出来るかもしれない。

それでは向上心はどのような場合に最も喚起されるのであろうか。これが最も重要な問題であろう。私個人の考えではあるが、まず本人が適切で且つ達成可能と思われる目標を自分のものとして選び出すことが必要と考える。目標のない人に向上心は喚起され得ない。向上心とは他人との競争ではなく,自己の能力・記録への挑戦である。

科学者はどのようにして誕生するか

 科学者になるには,まず高校生時代からできるだけ科学・数学・英語を勉強すべきでしよう。高等学校で充分に勉強して大学へと進む。地方の小さな大学であれ,都会の大きな大学であれ,また国立大学,私立大学であれ、自分の希望に合った大学に入り,基礎科目,専門科目を充分に修得すべきである。大学の学部の課程を修了すると学士の称号が授与される。これは専門という道に向う入口に立ったということを意味するにすぎない。科学者になるにはまだ不充分である。次に大学院という学部の上部課程に入り,博士になる道筋の案内人である良き師を求めるべきである。大学院では5年間の専門課程の講義、研究と演習等を履修しながら、新入生の実験指導等も経験・体験する。科学の分野で博士号を授与されるには課程を修めるのみでなく,個人的な研究が要求される。それまでに誰も見つけてない何か新しい知識や技術を探求し、その結果・結論を学位論文としてまとめなければならない。この研究は数年間で終わらねばならず,学位論文は研究についての本を書くようなものである。最後に教授陣を前にして,自分の研究成果を発表しなければならない。発表説明会の後,教授会で博土号を与えるベきかどうかが検討・審査される。

 博士号を得るということは,青春時代の貴重な時間を多く費やし,大変に努力の要する仕事である。科学者になることを本当に望み,博士号を必要だと考える者だけがこの道を選ぶべきである。

 フランスの大科学者ルイ・パストゥールは,「チャンスは心の備えある人にのみほほえむ」,また「大発見は成功した好奇心である」とも言った。内村鑑三は自著「後世ヘの最大遣物」の中で,「君は後世に何を遣していくのか」と問いかけている。学問的貢献,偉大な冒険,未知の解明等の何かを後世に遣せるよう心の備えをしてほしい。君の科学への献身が,人類の健康と繁栄に役に立つとすれば,それは金銭に代えることのできない報酬であり,また喜びである筈だ。本当に大切なものは金銭では入手できない。

 読者,特に若い人達が,生物学の旗手(科学者)として活躍されることを眼前に描きながら,「細菌学を創ったひとびと 大発見にまつわるエピソード」を志賀先生の意志に反しないと思われる範囲で,漢字,表現等に最小限度の手を加え,今の若い人にも読めるように編集してみた。

(完)

 本書は,株式会社南出堂と志賀潔先生の御遣族の快諾を得て,北里メディカルニュース編集部の責任において発行しました。しかし,本文記載の内容は,碩学者故志賀潔博土ご自身の筆による原著であります。一部の表現・字句・用話の改訂ならびに歴伝者の没年の追記および編集体栽等は,編集委員田口文章の責任でおこないました。したがって,編集上の問題およびその他ご叱正,ご教示,ご抵判等は,田口文章におねがいします。

尚,本文記載の内容および写真等の無断転載はご遠慮ください。

北里大学  医療衛生学部  臨床微生物学研究室
教授  田口文章
TEL: 0427-78-8112.
FAX: 0427-78-9400.
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